コラム
Column「2011年欧州文化首都、エストニア共和国・タリン市」
エストニア共和国は、2004年にEUに加盟し、今年1月にはユーロも導入されました。近年はIT立国として、世界初のインターネットによる国民投票の実施、またオンラインで無料通話が楽しめるソフトウェアの開発等々、目覚ましい発展を遂げ、世界的にも注目を浴びている国の一つです。
欧州文化首都タリン2011のテーマは「海岸の物語(Stories of the Seashore)」 。東西の文化、そして北欧と中央ヨーロッパが出会うバルト海に位置したその街は、古くから交易が栄え、異文化と深く関わることで独自の文化を築いてきました。しかし小国であるエストニアは、長きに渡りドイツやソ連などによる支配を受けることになります。第二次世界大戦後には、脱国防止や軍事的な理由から、ソ連当局によって海岸へ近づく事を禁じられた過去があります。それにより漁業や港町も衰え、人々の心は海から遠ざかっていきました。そして独立回復後20年経った今でも、人々の海岸線への想いは複雑なままです。このような背景から、海と街を再度近づけ、過去を振り返りながらも広く開かれた街として、新たな歴史の物語を紡ぎたいという想いがこのテーマに込められているのです。
そして欧州文化首都の開催を通して自国を見つめ直すことは、単に文化の発信や交流を促すだけでなく、より深い問いをエストニアの人々に投げかけました。
?ヨーロッパ人であることとは、エストニア人であることとは、そして自分とは何者なのか。
私たちはどこからやってきて、そしてどこへ行くのか…。?
このような問いを考える上で、エストニアにとって無くてはならないものがあります。それは、“歌”。これはエストニアの人々の血に脈々と流れていると言っても過言ではありません。多くの民間伝承が民謡の形をとってきたエストニアでは、歌うことが自国の文化を表現する重要な手段として、今も大切に守られています。1869年には最初の「歌の祭典」が催され、大勢の人が集まり歌を歌うその行事は、国を代表する重要なものとなりました。
しかし第二次大戦後、ソ連の配下にあった時代、歌は政治的プロパガンダとして利用されたのです。人々はエストニア語の民謡を歌うことを禁じられ、代わりにスターリンやレーニンを賛美する歌を歌わせられたのです。それでも人々は、エストニア人であることを誇りとし、自らのルーツを忘れはしませんでした。1980年代後半、ソ連崩壊の兆しと共に独立の機運が高まり、暴力ではなく合唱を通して自由を獲得しようという動きが始まりました。1988年には独立を目指すグループの呼びかけにより、約30万人が集まった「歌の祭典」が行われ、さらに1989年にはバルト三国が共闘し、エストニアのタリンからリトアニアのヴィリニュスまでの600kmを、200万人の手による『人間の鎖』で結び独立への意志をアピールしました。そして1991年、地道な独立運動とソ連との独立回復交渉の末、一滴の血も流すことなく独立を実現。歌と踊りは人々の心を繋ぎ、自由を獲得するために重要な役割を果たしてきたのです。
今でも、5年に1度、タリンの歌の広場にエストニア全土から多くの人々が集い、「歌の祭典」が催され、民族の誇りと自由の喜びを歌い続けています。
このように、合唱が重要な文化として息づくエストニアから、エストニア合唱連盟代表のアールネ・サルヴェール氏が来日され、仙台、福島、鹿児島の合唱団や学校にて、6月3日まで声楽ワークショップを行ないました。サルヴェール氏が、音楽ワークショップを通してどんな事を日本の若者に伝えてくれるのか、期待が高まります!
◎関連ページ
・プログラムページ
「エストニア合唱連盟代表・指揮者アールネ・サルヴェール氏による音楽ワークショップ 」
・事務局だより
「歌分かち合うひととき-サルヴェール氏音楽ワークショップ」
「サルヴェール氏音楽ワークショップin鹿児島県志布志市」
「宮城三女高OG合唱団顧問遣水桂子氏来訪」
・タリン2011 公式サイト