コラム
Columnヤンは本当のサムライになった
約束どおりベルギーのサムライはやってきた
私たちの町は、5年前に隣接する3つの町が合併して人口3万5千人ほどの市になった。名は変わったものの、未だにどこにもありそうな高齢化の進む田舎町に変わりはないが、人情だけは温かい。
22年前、平成の時代に入ろうとするころ、過疎化が進み疲弊していくそんな町で、ここに今も生き残る侍ありとムシロ旗をあげた。私たちは「やっちく松山藩」と名をつけ、平成の時代を自らの手で生き抜く術を見つけようと、祭りを中心にボランティア活動を開始した。
全国には由緒ある大きな祭りはいくらでもあるが、ほとんど地域民の手作りで3~4万人の客を集めるのはすごいということで、地域おこしの部で御上から何度かのお褒めの賞をいただき、いまでもにぎやかに11月の上旬に開催されている。
そんな町にヤンは5年前に初めて訪れた。何も無い町だが、みんなで異国の戦士として、もてなしの心を持って接した。口だけでなく全身全霊で接する者たちに、まだ日本にも生き残る侍がいることに感銘し、ヤンは藩士のみんなに「ラスト サムライ」という自作の曲を贈った。
そのことに、感激した藩士はその代わりとして、もらった縁に感謝し恩を忘れない精神を持つベルギーのサムライに敬意を表し、ヤンのサムライ姿の肖像画を贈った。それから日本の侍とベルギーのサムライは強い友情のもとに再会を約束し、現在まで交流は続いている。
3年前と今回また再び約束どおり、ベルギーのサムライはギターを片手にこの町にやってきた。心が通じ合えば久しく逢わずとも、また遠く離れていても親友でいられるのだ。
彼こそ、日本人より日本人らしい今はなき武士の心をもつ本当のサムライなのかも知れない。
夢にまでみた石蔵コンサート
この田舎町では、個人の趣味を除いて、まずクラシックを聴く機会はほとんどない。クラシックギターについても、なかなか興味を示す人が少ないのも事実だが、そのような町だからこそ外国との交流は意義深い。
あるとき、この田舎町に昭和初期から残る、大きな石蔵が取り壊しになるかもしれないという一大事がおこった。そこで熱意を持って交渉のうえ、なんとか有効活用をすることを前提に団体企業から借り受けたが、残念ながら有効な使い道がない。
そこで、藩士たちはこの石蔵の存命を考えるうち、いつの頃からかひそかに石蔵を会場にした、ヤンのギター公演を企てていた。そんなおり、願いが通じたのか、今回祭りに合わせてヤンがやって来るという情報が舞い込んだ。
しかし、その情報からコンサート開催まで期間が短く、近く開催される祭りの準備と並行して行うことになったが、石蔵の掃除や飾り付け、照明オーディオに集客広報などの問題も山積していた。協議の結果、行政とやっちく松山藩そして地域のふるさとづくり委員会の3団体が協力して準備をすることになった。百年近くたった石蔵の水洗いは消防団が行い、看板など外装はやっちく松山藩、照明とステージの内装飾り付けはふるさとづくり委員会、音響や観客集客のチラシや広報は行政が行った。
だれも寄り付きもしなかった石蔵は、りっぱなコンサート会場にうまれかわった。
澄み切ったギターの音色が石蔵に沁みこんだ
今回、来日したヤンは自信に満ちあふれていた。それはすでにベルギーで実施した「セゴビア・コンサート」の成功によって、彼の音楽は磨ぎ澄まされ完成されていたからである。今回ヤンは偶然にもギターの父アンドレス・セゴビアの弟子である姫路市の松田晃演氏と本市であうことができた。ヤンが本市入りする時に丁度、お弟子さんに会いに行くために本市の港に着かれるというのだ。今回のセゴビアのプログラムやCD制作にも協力をもらっていたので、この偶然な成り行きは天国のセゴビア氏が仕組んだことであろうと私は思っている。
松田氏は対談の後、なんとこの石蔵の音響状況も奥様同伴で立ち寄っていただき、いろいろなご指導をいただいた。石蔵の広さ、音の跳ね返りなど申し分ないとのお墨付きをもらい、演奏は始まった。
ヤンの心は、静かで澄みきっている。
この町ではクラシックを聴く機会はないと書いたが、人は誰でも心で音楽を聴く耳を持っていると思う。機会はなくとも、大事なのは頂点に達した、神からもらった指で奏でる異国の演奏家の心を聴く姿勢である。
静かにそして流れるように、人の心を洗い石蔵の石にまでギターの音色は沁みこんでいった。
鎧武者になったヤン
石蔵コンサートから二日後に祭りの本祭は開催された。
県内では知る人ぞ知る祭りになった会場には、県内外から全市民に近い人が集まる。人気は武者行列と、いろいろなもてなしの大盤振舞いであろうか。
ヤンは甲冑を身につけ、武者行列に参加した。
日本人の為につくられた鎧なのに、なぜこんなにも武者鎧姿が似合うのだろう。行列を見守る参道からは、ヤンの容姿をほめたたえる声が聞こえる。御所車に乗り込んだヤンは、凛として遠くを見つめるように通り過ぎた。
舞台でのセレモニーでは、ヤンが日本語で口上を述べる。
「今回の口蹄疫で、私の愛するこの町が大変なことと聞きおよび、はるかベルギーより駆けつけてきたところに御座候・・・」映画のシーンのような場面。
観衆から大きな拍手を浴びながら、厳粛ななかに大砲の轟音とともに奉納儀式は終わった。
サムライ姿でギター演奏
鎧からきもの姿に着替えて、ヤンはゴールデンタイムにギター演奏を行った。
本来なら野外での演奏はしないと思われるが、無理にお願いしての演奏である。サムライ姿でギターを奏でるヤンは観客の心をとらえ、最後の「ラスト サムライ」の演奏では、少々ざわついていた会場は静まりかえった。
ヤンがこの地域の為につくった曲は、何の抵抗もなく風や空気そして花や木々と人の心にも溶け込んで、大きな会場はしばし時間の流れを止めた。
演奏の終了とともに時間が動き出し、観客の拍手と歓声が会場いっぱいに湧き上がった。ヤンは本当のサムライになったのだ。
ヤンの音楽をもっと日本全国へ
演奏に入る前にヤンは全神経を集中し、しばらく静止する。それはギターを奏でることの頂点を究め、そして人として悟りを得ることへの禅の姿にも似ている。芸術家として人として、完成されたヤンが去った後にはすがすがしい残り香のような、幸せ感が漂っている。
その道を究めればそれを聴く者は幸せになり、自然と道は拓かれるもの。我々日本人は失ったサムライの心を取り戻すためにも、ヤンの音楽を日本全国に拡げそのこころを届けなければならない。
今回のヤンの来日に携わったすべての方々に、心より感謝を申し上げたい。
本プログラム紹介ページ(当委員会ウェブサイト内)はコチラ →https://www.eu-japanfest.org/n-program/2010/11/post-211.html 国際青少年音楽祭(当委員会ウェブサイト内)はコチラ →https://www.eu-japanfest.org/n-musicfestival/musicfestival.html