特別インタビュー1:海外ツアーで生活していく――ゼロから飛び出し、世界で活躍するパフォーマンス集団へ

小川正晃|和太鼓集団「倭(やまと)」 代表
河野桃子|インタビュワー/ライター

樹齢400年の大木からつくった数十台の太鼓を打ち鳴らし、圧倒的な力強さと、独創的な音楽で観客を惹き付ける和太鼓集団『倭(やまと)』。欧州文化首都では、1998年のストックホルムを皮切りに、1999年ワイマール、2003年デンマーク、2007年ルクセンブルグ、2014年リガ、2017年キプロスでの公演に参加してきた。

1993年のカンパニー立ち上げ以来、日本各地のみならず世界54ヶ国で4000公演以上をおこなってきた。伝統的な和太鼓を受け継いだわけではない。楽曲や衣装、その他舞台で使用する様々な大道具小道具も全てメンバーによって制作し、類を見ない和太鼓パフォーマンスを行っている。20名ほどのメンバーが暮らすのは、奈良県明日香村。一軒家で共同生活をしながら、海外のツアー公演などで生計を立てている。
代表の小川正晃さんは「食べていくために海外に出た」と言うが、右も左もわからない異国で、どのように価値を高めてきたのか。倭の拠点である明日香村を訪ね、海外で日本人アーティストが活動すること、海外ツアーの収入で生活するということなど話を聞いた。

©Hiroshi Seo

偶然うまれた和太鼓集団

─倭として太鼓のバチを握ったのは1993年。その成り立ちから聞かせていただけますか?

もともと太鼓を仕事にするつもりはなかったのです。大学を卒業して実家の仕事を手伝っていたある日、母親が近所の小さな神社の蔵に眠っていた大太鼓を見つけてきたのです。100年以上前の古くて大きな太鼓でした。「この太鼓を使って神社のお祭りで演奏したら?」と薦めてきました。きっと息子がフラフラしているように見えて、母親ながらに心配していたんだと思います。自分としては面倒くさい思いもありつつ、せっかくだからやろうかと、見よう見まねで曲を作って、2週間ほど一生懸命練習をして、弟と友人の4人で祭りに出たんです。93年夏のことでした。
その後、お祭りで観てくれた人が老人ホームや小学校に呼んでくれたりして、太鼓を演奏するようになったんです。すぐに友達たちが集まって来て、メンバーが増えていきました。太鼓の演奏で生きてくとはまったく思っていませんでしたが、その内にメンバーが「平日の演奏にも参加したいから」と仕事を辞めて来るようになってきたんです。それで「食べていかなければ」という危機感を感じはじめて、いろんな演奏機会を探すようになりました。

ストリートパフォーマンスもたくさん演りました。深夜にトラックに太鼓を積み、みんなで乗り合って大阪の街に向かいます。おまわりさんに怒られながらあちこちで演奏をしては、小銭を集めて生活していました。いろんなイベントや祭りにも参加しました。終戦60周年記念事業で靖国神社で演奏をさせて頂いたり、各地の和太鼓イベントにゲストで呼んで頂いたりと、呼ばれるままに各地で公演を行いました。並行して活動拠点を探していたのですが、探し始めて3年後に、明日香村の一軒家を紹介してもらうことが出来て、明日香に移り住んで共同生活を始めたんです。
大きな転機になったの、結成から4年後、石川県の浅野太鼓店の専務さんから思わぬお話をいただいたことです。「ここまでよう頑張ってるな」と、大太鼓から何から必要な太鼓をすべて作って下さったんです。おそらく正規の値段で2000〜3000万円ほどかかるはずなんですが、「お金はいつでもいいから」と言ってくださいました。みんなで石川まで受け取りに行ったんですが、感動しましたね。

生きるために、海外へ飛び出した

─なぜ海外へ行くことになったのでしょう?

5年が経つ頃には、このままでは食べていけないということになってきました。日本でやっていては生きていけない、世界に出るしかない、という思いで一念発起し、エディンバラの国際フェスティバルに参加したんです。いろんなところで演奏してお金を貯め、800万円ほどを掛けて、右も左もわからない海外に飛び込みました。うまくいかなかったら、それで終わり。
公演初日のことでした。偶然なのか、スコットランドの新聞『スコッツマン(The Scotsman)』が劇評で5つ星をつけてくれたんです。すると翌日から1ヶ月後の千秋楽まですべてのチケットがすぐに売り切れました。自分たちで売る必要がなくなったので、毎日路上パフォーマンスをしてはご飯代を稼いでいました。

このエディンバラ公演の成功があって、翌年のヨーロッパツアーが実現しました。このヨーロッパツアーは1999年から現在まで毎年継続しています。エディンバラの勢いに乗って、当時太鼓教室の生徒にブラジル人がいたということもあってブラジル公演もおこないました。ブラジルという地球の裏側にまで行ったので世界に出ていくことに怖さがなくなりました。「呼ばれたらどこにでも行こう!」という気持ちで、イスラエルに行ったり、欧州文化首都のイベントに声かけていただいてスウェーデンで公演をしたりしました。この98年に、一気に倭の海外活動が始まりましたね。2001年からはアメリカツアーも実施するようになりました。

─ガラリと生活が変わったでしょう。

最初の数年は、年間200回以上の海外公演をするようになりました。輸送が一番たいへんでした。太鼓は船で運ばなければいけないので、現在では4セット保有し、2セットは日本に、2セットはヨーロッパにあり、ツアーに合わせてあちこち船で運びます。出演メンバーは公演先まで飛行機で移動し、トレーラーとバスでツアーを回ります。現在は随分楽になりましたが、最初の頃のツアー生活は結構たいへんでした。毎朝自分たちで昼夜分のお弁当を作って、自分たちで車を運転して劇場に移動。劇場に入ったらすぐに太鼓をセッティングし、照明を合わせ、サウンドチェックをして、夜8時に開演して10時に終演。撤収が深夜の1時に終了して、すぐに移動して、夜中に宿泊場所に帰宅。弁当箱を洗って、2~3時間くらいみんなで雑魚寝して、翌日5時くらいには起きて、お弁当を詰めて次の町へ行く……そんな生活でした。

─結成当初は、日本でのお祭りやイベントでのパフォーマンスが多かったようですね。それは和太鼓が「日本の伝統楽器」であることにも関係があるのでしょう。では、和太鼓のルーツがない海外公演でのお客さんの反応はいかがでしたか?というのも、日本ならではのパフォーマンスだからこそ海外で受け入れられたのでしょうか?

たしかに、日本のエキゾチックさが海外の方々の興味を引いたということはあると思います。でもそれは70年代くらいの話で、僕たちが活動をはじめた90年代後半は、むしろ和太鼓グループがたくさんあって海外でも食傷気味だった印象です。


そのなかで倭は、和太鼓は使っているけれどとにかく楽しいエンターテイメント。僕らは関西のグループということもあって、派手で笑えてライブ感がある楽しめる舞台を目指しました。すでに日本の伝統や技術を大切にする和太鼓グループのいくつかは国内外で人気があったので、その方々とはまったく違うところで勝負しようという思いもありました。2年に一度新プログラムを制作し、和太鼓の新たな可能性を見出す、そういった倭の方向性が受け入れられたのか、「和太鼓は一度見たことがあるからもういいや」という人でも、毎公演違う倭のパフォーマンスを楽しんでいただけているようです。

最初の内は「ヘラヘラ太鼓を叩くな!」とか「まじめにせえ!」とか、よく怒られました。笑顔で和太鼓を演奏することが不真面目に思われていたのかと思います。そのうちに「楽しい和太鼓」も認知されてきて、倭がやってきたことを上手く取り入れるグループも出てきました。エンターテイメントな和太鼓が増えてきた今、今度は僕たちがそれを取り入れなおしてどうしていこう、と考えるのもとても面白いですね。

─倭のステージはたしかにエンターテイメント。笑いもたくさんあるし、和太鼓の迫力に圧倒もされるし、客席も一緒に参加している一体感がありますね。

一緒になって盛り上がれるのは嬉しいですね。楽しく演奏するだけの様に見えますが、実はそのためにメンバーはかなり厳しいトレーニングを日々しています。和太鼓演奏を見せる為だけに演奏のタイミングや身体の角度を練習するのではなく、その場の雰囲気を感じとり、観客に共感してもらえる劇的なステージにするために、まず演奏する自分がどういう人間かを普段の共同生活の中で知っていきます。自分はどういう人間なのか、相手はどういう人間なのか……その関係性があり、その間に演技があるので、台本があっても楽譜があっても自然なライブ感がうまれるんです。漫才の芸と似ているかもしれません。凄い芸人は、ネタであっても毎回「それ初めて聞いた!」というやりとりを繰り返します。我々の公演も年間200回もあるので、飽きてしまったり、そのことで舞台に新鮮さがなくなってしまわないように、今日、目の前にいるお互いを自然に感じ、お客さんとの気持ちのやりとりを自然に行うための芸を日々の生活で磨いてます。実際、パフォーマー一人ひとりにとっては厳しい毎日だと思いますが、食べていかなければいけないという切実さは大切です。
同じお客さんが何度も足を運んでくれるのは、楽しいからだけじゃないと思うんです。和太鼓には、得体の知れない大きな力がある。僕たちもそれに惹かれて、その価値を信じている。和太鼓を目の前にすると、なぜかドキドキする。客席に、どんな音がなるんかな、どんな舞台なんかな、という緊張感があって、舞台上に、どんなに練習しても「今日はうまくいくかな」という緊張感がある。お金を払ってチケットを買っている観客と失敗したら食べていけない太鼓打ち。生活や人生の掛かった緊張感。この緊張感が大事だと思います。路上パフォーマンスの感覚に近いです。和太鼓そのものの圧倒的なエネルギーとこの緊張感を大事にしながら舞台をつくっているので、25年以上もやりたいことを続けてこられているのだと思います。

本インタビューは第27回EU・ジャパンフェスト公式報告書掲載の、2019年に実施されたものです。
続きは7月4日公開。