コラム
Column第23回 EU・ジャパンフェスト 事務局からの報告
はじめに
この報告書は、欧州地域における2015年1月~12月までの活動、及び日本国内における2015年4月~2016年3月までの活動を対象にしている。
この間、私の欧州滞在は百数十日を数えた。15ヶ月間を振り返り、現場で知り得たこと、学んだこと、実感したこと、共感したこと、協力し合い実現したこと、そして、そこから生まれた希望の未来について報告してゆきたい。
30年の歴史を積み重ねた欧州文化首都
~欧州文化首都の使命は、芸術や文化を通して、人間一人ひとりが生きることについて、向き合い、考え、語り合う機会を創ることです~
欧州文化首都の創設を提唱したギリシャの文化大臣、メリナ・メルクーリ女史の言葉
1985年に欧州文化首都がギリシャのアテネで誕生してから30年。EU加盟国は12カ国から28カ国へと拡大した。一方、EUに課せられた使命は、政治や経済分野の統合であり、文化の統合ではない。従って、加盟各国が独自の文化政策を持つなか、欧州委員会の官僚主導による欧州文化首都は、最初から順調に機能したわけではなかった。
決して順風満帆とはいえないスタートだったが、1990年開催のグラスゴー(英国)では、ディレクターのボブ・パーマー氏による卓越した指揮で地域挙げての取り組みが成功した。そして、EU市場統合完成の1993年からは、日本を始めとするEU域外の世界へ参加を呼びかけたことが起爆剤となり、欧州文化首都は深化と進化を年々深めていった。
現在、“テロ”や“難民”をはじめ、重要課題が山積する欧州社会は、それらの困難に抗い乗り越えようと試練の場に立たされている。欧州文化首都は、そのような状況のなかで、世界からやってくるアーティストたちを迎え、国境を越えた人間同士の連帯を強める貴重な活動となっている。この活動は、単に「EU加盟28カ国のプロジェクト」として括ることはできない。参加国が100カ国を超え、国連や世界の大国には到底実現し得ない芸術文化の重要な使命を果たそうとしている。そこに欧州の底力を垣間見ることができる。
欧州文化首都モンス2015(ベルギー)、逆境のなかでの開幕
モンスの開幕は1月24日。それはパリで起こった政治週刊紙「シャルリー・エブト」襲撃事件の直後であり、テロに関わった容疑者がベルギーに逃亡、潜伏中との情報が飛び交う時期と重なっていた。連日、日本のメディアは、この非道残虐な事件に関わるニュースを取り上げていた。世界から犠牲者を悼む声が寄せられ、オランド仏大統領は「私たちは戦争状態にある」と声明を発表。テロリストとの対決姿勢を鮮明にした。そんな中、ブラッセル空港に降り立った私は、いまだかつて、見たことのないほどの多数の武装警官による物々しい厳戒態勢を目の前にし「これは戦争だ」と実感させられた。
しかし、一旦空港を後にモンスへ向かう電車の車窓からは、のどかな町並みや田園風景が広がった。私はその温度差に暴力シーンが展開するハリウッド映画の鑑賞から平和な街中の日常に戻ったような不思議な錯覚に陥った。その感覚は、モンスに到着しても続いた。出発前、多くの友人たちがテロ事件直後のヨーロッパへ向かう私を心配してくれたことを思い出した。しかし、その夜の開幕を祝うイベントに繰り出した10万人近い市民の熱狂のなかで、その心配は見事にかき消された。街角のいたる広場や会場で欧州文化首都の開幕を告げる野外コンサート、パフォーマンス、マッピングプロジェクションなどが繰り広げられ、市民は歓声を上げ、夜を徹して開幕を喜び、楽しんだ。おそらく、参加したすべての市民が、テロへの恐怖を胸のうちに秘めていたに違いない。しかし、どの顔にも笑顔があふれていた。それは、真剣な笑顔だった。卑劣なテロに対して、市民が手にする武器とは「平常に振る舞い、人間同士の絆を強めること」であり、その覚悟の表明であったように思えた。
ベルギーでは、過去にアントワープ(1993)、ブラッセル(2000)、ブルージュ(2002)と過去3回開催されている。いずれもオランダ語圏フランダース地域で開催され、今回初めてのフランス語圏ワロン地域のモンスでの開催となった。19世紀、ワロン地域は炭鉱で栄え、ヨーロッパで最初に産業革命を成し遂げたが、20世紀の前半にはベルギーの工業の中心は北部地域に移行し、ワロン地域での重工業は次第に衰退した。戦前、戦後を通じて、長い低迷が続いたが、近年、「アートとテクノロジー」をキーワードにシリコンバレーならぬデジタルバレーに変身しようと地域が一丸となって懸命な努力を続けてきた。最近では、マイクロソフトやグーグルなどの欧州拠点の誘致に成功するなど、地域再生の機運も出てきた。その流れの援軍になったのが欧州文化首都開催の決定だ。
主要プログラムには、現代アートを特集したものも多く、とりわけ、コンテンポラリーダンスやデジタルアート・ミュージックの分野では、日本の梅田宏明やGROUNDRIDDIMなど、世界各国から気鋭のアーティストが招聘され熱狂的なファンを魅了した。
また、過去の栄華にも目が向けられた。西洋絵画史上、最も重要な画家の一人であるゴッホの芸術家活動がこの地域で始まったことから、「ボリナージュのゴッホ展」が開催された。ジャポニズムに傾倒したことでも知られるゴッホだが、重要作品3点が日本の美術館の協力を得て公開されことも話題を集めた。
加えて、若い世代に眼を向けたプログラムも数多く企画された。1993年の欧州文化首都アントワープ以来、日本とベルギーの青少年の交流は継続発展を遂げた。今回、これまでに培った絆を生かし、日本の少年少女合唱団がフランダースとワロン両地域の合唱団ともに参加した「国際青少年音楽祭」が開催され、澄み切った歌声が聖エリザベス教会の大聖堂に響き渡った。当初、ベルギーを二分している両地域の難しい政治状況もあり、その実現が危ぶまれたが、長年、日本に拠点をおくフランダースセンターのカトリッセ館長の献身的な努力があり、開催にこぎつけることができた。日本の青少年は、地元の好意でホームステイも体験し、彼らにとって生涯忘れえぬ貴重な体験となったに違いない。また、モンスのコンセルバトワールと近畿大学の教授たちの長年の協力関係により、両大学の学生たちによる滞在制作など日欧の交流が展開した。欧州文化首都モンスにおける成果は、次の世代に引き継がれてゆくものと確信した。
もうひとつの欧州文化首都プルゼニ2015(チェコ)
ピルスナービールの発祥地として世界中に知られるプルゼニは、中世から東西の欧州を結ぶ通商の要衝であった中欧の古都。長い歴史のなかで培われてきた芸術文化の蓄積は、欧州文化首都のタイトル獲得へと繋がった。プルゼニの芸術文化は、新たなものを受け入れ、許容するのに十分成熟していた。地元実行委員会は、開催決定から数年をかけてプログラムつくりのために多大なエネルギーを費やした。その途上では、中央政府の財政難により運営が不安視されることもあったが、関係者たちの情熱はその困難を見事に乗り越えた。過去の遺産に焦点を当てると同時に未来へ向かって斬新な取り組みも展開され、欧州文化首都プルゼニは、100カ国を超える国々からのアーティストたちを呼び込み、グローバルプロジェクトとしての役割を十分に果たしたと言える。
日本関連プログラムは、盆栽、狂言、落語、書道、将棋、合気道に始まり、舞台芸術、現代アート、写真、映画、そして音楽やダンスは、クラシックからコンテンポラリーまで幅広いプログラムが展開された。その規模は、隣国ドイツに次いで2番目となった。この背景には、日本とチェコの長い文化交流の歴史の上に立った、双方の関係者同士の密接に連携した努力があった。長い間、地中に根を張っていた草花が、春の到来を待って一斉に花々が咲き始めるかのように、欧州文化首都の開催とともに、それらのプログラムが見事に開花したのであった。
EUの拡大に連動して、年々欧州文化首都の取り組みは大型化する傾向にあるが、プルゼニは準備段階での財政難により、新たな施設の建設といった巨額な予算捻出は不可能となった。この困難な事態は、改めて「文化とは何か」「誰のため文化なのか」「文化を通して何を目指すのか」という根源的な問いかけを市民に突きつけた。市と市民が知恵を絞り、生み出したプロジェクトの一つが「クリエイティブゾーン・Depo」だ。長い間、市バスの修理工場として使用されていた広大な施設を活用し、アートとクリエイティブビジネスが共同し、新たな文化創造を目指す試みだ。老朽化した施設は、小額の予算で大規模な文化施設に変身を遂げた。2016年Depoは、プルゼニ市の全面的な財政支援を受け、中央政府やEUの補助金も加え、欧州文化首都の遺産を未来へと引き継ぐプロジェクトとして再出発した。教育、芸術文化と産業分野の相互乗り入れの取り組みは始まったばかりだ。去る2月にはプルゼニ市よりバクサ文化担当副市長やプログラムディレクターのスルジェンコ氏が来日し、日本の文化関係者に対し、Depoの構想を発表した。欧州文化首都は一過性の催事ではなく、長期にわたる取り組みの始まりであるとの決意を示したのである。これから、グローバルとローカルの二つの視点で世界の多種多彩な才能を呼び込み、Depoの挑戦は続いてゆく。10年後、欧州文化首都プルゼニの成果はさらに明確になっているだろう。
グローバル化で文化はどうなってゆくのか?その役割とは?
唐突だが、私たち日本人はどこから来たのか?人類史研究家の海部陽介氏によれば、「5万年前、アフリカを旅立った現生人類の祖先が、3万8千年前、ヒマラヤを南北に分かれて東進。対馬海峡を渡って、アジア大陸の端に位置する日本列島に渡来。少し遅れて台湾~沖縄ルート、樺太~北海道ルートからも入ってきた」とある。
21世紀に入って、グローバル化は急速に進展したが、その潮流がもたらす弊害という負の面も考えると悩みは深い。しかし、すでに5万年前にグローバル化の第一歩が始まっていたと考えると何故かおおらかな気持ちにさせられる。悲観は気分の問題、楽観は意志の問題。今日の文化を考えるとき、そんな姿勢も必要ではないだろうか。
近年、新興国では、文化の起源を巡っての議論も見られる。自国の文化を誇りにする気持ちが、政府の国威発揚の政策とあいまって、国家間の論争に発展する例も少なくない。
しかし、前述の「5万年」の尺度で捉えると、文化はつまるところ、発展した過程、成長した内容や質の高さが問われる。それが文化の価値に結びついてゆくのだ。
欧州文化首都プルゼニでは、多くの「日本文化」の花々が咲き誇ったことは前に述べた。しかし、それらの文化は日本から伝わり、膨大な時間と地元の人々の情熱が注ぎ込まれた結果であることを見逃してはならない。言い換えれば「日本文化は、西洋文化の一部となって定着したと」いう表現がより実態に沿っている。日本文化が伝わった先では、地元の伝統文化と触れ合い、刺激を受けながら成長していったのだ。
文化のグローバル化を示す例として、世界各国で愛好者を増やし続けている俳句を挙げてみよう。俳句とは、五・七・五の十七音から成る日本語による世界最短の定型詩である。17世紀に松尾芭蕉がその芸術性を高めたことで知られ、いまや世界各国に多くの愛好者が存在する。日本の俳句は、字数の制限や季語を組み入れることを求められるが、海外に渡った俳句は言語や文化の違いから、それぞれの土地の文化に溶け込み、三行詩などといった異なる手法で詠まれている。オリジナルにはない変貌したスタイルの俳句の姿に、日本の俳人の中には、それを邪道だとして批判する声も存在する。異論があって当然だが、私は、俳句が海外の詩人に素晴らしい刺激を与えたことに目を向け率直に評価すべきだと考える。
俳句愛好家として知られるファンロン=パイ元EU大統領の次の言葉は、まさに正論だ。
「日本は俳句発祥の国だが、俳句はすでに世界の哲学である。」
形式を守ることのみに終始すれば、本来の素晴らしさを見失うことがあるのではないか。
芭蕉の俳句は、四季折々に自らの人生哲学を重ねたことに価値があったのだから。
一方、19世紀以降、日本に伝えられた「西洋文化」も一世紀半の歴史のなかで、日本の社会に溶け込み、現代の日本文化の一部となった。クラシック音楽教育のなかで、日本の鈴木真一博士が考案したヴァイオリンの教則本は、「スズキメソード」の名で知られ、すでに世界各国で音楽教育に欠かせない存在になっている。また、日本のジャズピアニスト上原ひろみ氏の最新アルバムがジャズ発祥の国アメリカで2016年のヒットチャートのトップを飾ったことなど、文化のグローバル化の事例には枚挙に暇がない。
ところで、「ボーダレス」はグローバル化を表す際にしばしば用いられるが、現実には、この言葉は何を対象としているのか。地理的国境だけでなく、宗教、世代、人種、文明、地域文化の違いもボーダーとなっている。
昨年、ストックホルム(1998年欧州文化首都開催)におけるアートフェアに参加したTHE ROOM BELOW代表の村住知也氏は、ボーダーについてさらに掘り下げた意見を述べている。この団体は、日本の石川県で精神疾患を患うアーティストが持つ高い芸術性を社会に発表しようと設立された。彼は語る。「国際的な現代美術のイベントに参加したのは、障害者と健常者の間にあるボーダーを取り払うため。現代美術は、『現代をいかに捉えるか』という唯一のテーマを掲げています。現代美術家は、障害を持っていること、更にはいかなる人種や性別であってもハンディキャップとは認知されないのです」
欧州の危機は世界の危機、アートに果たせる役割とは?
このような文化のグローバル化、ボーダレス化が進展する中、フランスやベルギーで勃発した一連のテロは、欧州市民に衝撃を与え、「文明の衝突」を持ち出すメディアも現れた。2016年3月22日ブラッセル空港での爆破テロ勃発の同時刻、私はスペインのビルバオ空港の出発ロビーにいた。その日は、ミュンヘン、コペンハーゲン、そして国内線でオーフス(2017年欧州文化首都開催予定)へと乗り継いだ。確かに各経由地の空港ロビーのテレビは事件を実況で伝えていた。事件から10日後、帰国して眼を通した日本の新聞には「ブラッセルはパニックに」「爆薬イスラム国製か」「欧州全土、厳戒態勢」との大見出しに私は違和感を禁じえなかった。あの日、乗り継いだどの空港でも通常通りの警戒で、乗降客に動揺は感じられなかったし、その他の欧州全土は平静を保っていた。数日滞在したデンマークでも、過剰な反応は全くなかったのはもちろんのこと、むしろ、こんな事態にあってあらゆる差異を超えて連帯しようという機運さえ感じられたのである。報道の任務は、事実を限りなく客観的に伝えることだ。メディアの過剰反応ともいえる報道ぶりは、事件を本質で捉えているとは思えない。これは「欧州型自由」が生んだ危機であり、この事件の背景は、イスラム国の過激化ではなく、欧州内の過激派のイスラム化であるという見立てが一番腑に落ちる。論客ジャック・アタリは、仏社会の移民統合の遅れと弱さ、若者の絶望がテロリストにつけこまれたとの見方を示した。その上で「これは、文明の衝突ではない。文明と野蛮性の衝突だ」と諭し理性ある対応を世間に訴えた。
芸術は対立する価値観を共存させ、真の自由を探せる手段だ。アーティストには他者を攻撃するのではなく、他者に心を開き、人間としての繋がりを築くことが可能だ。日々の生活、地域社会のなかで、多様な文化や価値観を受け入れること、そして、他者に対する寛容性を深めることに、アーティストは自らの創造的な発想と行動で限りなく貢献できると私は確信している。
欧州文化首都を巡り、広がるグローバルな連携と連帯。
EU・ジャパンフェストは、1993年のアントワープに始まり、これまで25カ国37都市で開催された欧州文化首都の活動を支援してきた。振り返れば、23年間、毎年欠かさず当該年度の欧州文化首都に関わってきた国や組織は、欧州にもなく当委員会のほかにない。政府からの支援もなく、かくも長き期間、今日まで活動を継続できたのは、日本の民間企業の献身的な支援があったからだ。
かつて、実行委員長を務めたある経済人の言葉が忘れられない。
「企業は日々努力を重ね、10年後さらに繁栄するかもしれない。しかし、その時、社会に詩人、音楽家、哲学者、画家、そして、勇気あふれる若者たちの存在がなくなっていたら、果たして、人生の意味があるだろうか」
これまで、バブル経済の崩壊、リーマンショックをはじめ幾多もの経済危機、未曾有の東日本大震災など、EU・ジャパンフェスト日本委員会の存続に、たびたび赤信号がともったが、その都度、活動の原点に立ち戻り、難関を乗り越えてきた。勇気、情熱、創造力、これらが当委員会の活動に関わった経済人、そしてアーティストが立場の違いを超えて共有してきた価値である。
もちろん、この背景には欧州文化首都が高い理想を掲げ、行動を共にしてきたことが原点にある。2016年2月には、欧州文化首都9都市の代表20名が東京に集結した。滞在中、当委員会の総会に出席のほか、多くのアーティストや団体と今後の活動について議論を重ねた。一方、国際交流基金やアーツカウンシル東京など、多くの日本の公的機関との会合を通じ、彼らが互いの活動について理解を深めたことも、将来のさらなる協力の道を開いたものと言えよう。
当委員会の支援対象は、1年目のアントワープでは20プログラムに過ぎなかった。その後、過去の開催都市から継続発展、派生する活動、将来開催予定都市による準備活動が年々加わり、23年目は、全体で800プログラムを数えるにいたった。この拡大成長を支えているのは、継続的な日本企業の支援とともに、欧州文化首都、および地元の芸術機関の予算だ。加えて、日本から参加するアーティストや団体の自助努力も大きく、彼らは国際交流基金や文化庁など公的機関への助成申請はもちろんのこと、近年では、クラウドファンディングを活用するなど、活動の自立に向けた積極的な挑戦が展開されており頼もしい。
終わりに
私たちの活動の遠い先には、22世紀があるといつも考える。いまの若者たちへの支援は、間違いなく、その次の世代に影響する。若者が胸に抱く「憧れ」について目を向けてみよう。
彼らの「憧れ」が「一生の目標」へと変わる瞬間が必ずある。その機会を決して見逃してはならない。大人たちは、若者の可能性に思いをめぐらせ、それを後押しする責任と義務がある。その一つひとつの積み重ねが大切だ。私たちの熱い思いと小さな行動によって、世代から世代へとバトンが引き継がれ、22世紀に到達するのだ。
22世紀への道は今日の一歩から始まる。