コラム
Column事務局からの報告
毎晩、眠りにつく度に私は死ぬ。そして、翌朝、目を覚ますと私は生まれ変わる。ガンジー
死を意識するから、人生はかがやくのだ。ハイデッガー
数か月前、中国で発生した新型コロナウィルス感染症は、瞬く間に世界中に猛威を振るった。メディアによる深刻な報道が相次ぐ中、これらの言葉が私の脳裏をかすめた。2020年3月17日現在、世界全体での感染者数は17万7千人、死者は7,044人に上る。一方、毎年、インフルエンザは数千万人が感染し25~50万人が、そして、肺炎では450万人が死亡しているというデータがある。問題は感染規模ではない。ウィルスの実態や感染経路などが解明できずにいることだ。感染以上に広まっているのは、不透明さに対する不安そして死への恐怖である。人間が永遠の命を手にする可能性があるのならともかく、死は、私たちが生まれた時、すでに決定されている。それなのに、私たちはその恐怖におののくのだ。
そのような中、とりわけイタリアが心配になった。イタリア全土が封鎖されている。思い立って、2019年の欧州文化首都マテーラに住む長年の友人アルベルトへお見舞いの電話を入れた。外出もままならない生活にさぞかし大変だろうという心配とは裏腹に、彼は実に落ち着いていた。「うん、元気だよ。時間があるから今はゆっくり読書三昧だ。実に楽しいよ。」彼の口調は実に物静かであった。混乱の中にあっても、冷静さを失わずにいる彼の態度に私は逆に励まされた。
先を急ごう。昨年の欧州文化首都の報告に進む。
我が愛しのマテーラ、奇跡の町
2019年の欧州文化首都マテーラで1年を通して経験した事は、私にとって生涯忘れられない思い出となった。年の初め、私は開幕式に出席した。続いて、地元の小学校に案内され、市民総出の熱烈な出迎えを受けた。手作りの料理が次から次へとふるまわれ、ワイングラスを重ねるうちに、誰からともなく合唱が始まった。笑顔に溢れた彼らと過ごす時間の中で、心の底から幸せを感じた。いつしか、私たち招待者と地元の人々との垣根はなくなり、全員で歌い、笑い、語り合い、熱い塊ができていた。外からの訪問者を歓迎することは、どんな国でも同様だと思っていたが、この楽しさは格別であった。内外の人の区別がないのだ。ホスピタリティーという言葉をはるかに超えた次元であり、まさに「人間賛歌」という奇跡を体験したのだ。
かつて、凄まじい貧困のゆえ、イタリアの恥と言われた南イタリアに位置するバシリカ―タ州の古都マテーラが欧州文化首都を開催することになろうとは、全イタリアで予想する人は皆無だった。ただし、その実現を熱望してやまなかったマテーラ市民とアーティストたちを除いては。奇跡は起きた。国内22の立候補都市との5年間にも及ぶ争奪戦の結果、大方の予想を覆し、欧州文化首都のタイトルを獲得したのである。その決定に町中が熱狂し、歓喜の渦に包まれたことは言うまでもない。運命の女神はマテーラの上に微笑んだ。
歴史をたどると、15~16世紀、オスマン帝国に迫害されたアルバニア人やセルビア人は、バルカン半島からアドリア海を渡り南イタリアに逃れた。彼らの一部はマテーラに到達。マテーラのグラヴィナ渓谷の斜面にしつらえられたサッシと呼ばれる洞窟住居に移り住んだといわれている。その後、サッシは貧しい小作農民たちの住居となった。20世紀初頭には、この地域の人口が急速に増加したことに伴い、貧困層の市民や農民たちは採光もままならないサッシに家畜と同居することを強いられた。そのため、衛生状態は極めて劣悪なものとなり、乳児の死亡率は50%に達するに至った。1950年代に入り、この惨状を看過できなくなった政府は、サッシに住む住民たちを郊外の集合住宅へと強制的に移住させた。当時のイタリア政府の財政は厳しく、サッシを放置することしかできなかった。しかし、1993年ユネスコによりサッシの歴史的、文化的な価値が見直され、世界遺産に指定された。それを契機にマテーラの復興が始まり、たゆまぬ努力は欧州文化首都で結実する。
マテーラとの出会いは2015年1月。その年の欧州文化首都プルゼニ(チェコ)での開幕式のことだった。そこには、前年に欧州文化首都のタイトルを獲得したばかりのマテーラから、親善大使のアルベルト・ジョルダーノ氏が参加していた。彼は物静かな雰囲気を漂わせる紳士であったが、瞳の奥には、4年後に迫る欧州文化首都への並々ならぬ意気込みが感じられた。ほどなくして、私はマテーラを訪問した。同様に、マテーラからも度々、欧州文化首都の担当者たちが日本を訪問し、互いの往来が始まった。4年間をかけて、マテーラと日本のアーティストたちによるプログラムの交渉、準備が重ねられた。マテーラで出会ったアーティストたちの熱気に驚かされることも多かった。彼らは、日本への関心、日本文化への愛に溢れていた。改めて、文化のグローバル化を実感した。私たち日本人にとってのイタリアやヨーロッパの文化同様に日本文化もいまやマテーラの人々の生活の一部となり、浸透していることに気づかされた。デジタル化とグローバル化が世界に広まる中、文化の国境はなくなり、世界がお互いの素晴らしい文化を自分たちの日常に取り入れるようになった。マテーラは、一般の日本人にとって、よく知られた町ではなかったが、日本との文化の繋がりが存在していた。
前述したサッシ地区では、1974年に再建と新たな姿を求めて開催された国際建築コンペティションに日本人の児島学敏氏が参加しており、彼の設計図は現地で大切に保管されていた。そして、45年後、欧州文化首都の主要プロジェクトであるオープンデザインスクールで彼は再び講師として迎えられた。現代美術家の栗林隆さんは、地元の詩人の協力を得て作品制作を行った。音楽では、多様な交流が展開した。国際アコーディオンフェスティバルに長年交流のあるcoba氏を始め、多くの日本人音楽家たちが演奏を披露した。そのほか、折り紙アート、空手など国際的な武道のカンファレンス、サーカスなどの多彩な日本のアートが大きな反響を呼んだ。
写真芸術では、イタリアとブルガリアから選ばれた写真家2名が、栃木県で一か月の撮影を行った写真展がマテーラとプロヴディフの両都市で開催された。異なる視線でとらえられた日本の日常が、ヨーロッパの市民たちの共感を呼んだ。また、日本人ボランティアも現地の活動に参加し、今後の日本とヨーロッパとの共同の取り組みの道が開けた。
かつてイタリアの恥と言われたマテーラ。演劇界では、「恥」をテーマにバルカン諸国とイタリアによる共同制作の舞台が進められていた。「恥」は日本の文化であり、哲学であると考えていた制作者フランコ・ウンガロ氏の希望で、日本から田代絵麻氏の参加も実現した。
開幕を2か月に控えた2018年10月、芸術監督のパオロ・ヴェッリから、域外の訪問者のために、欧州文化首都マテーラの各プログラムに年間通用する「パスポート」を販売することを伝えられた。即座に私は反応した。「そのパスポート50冊を日本のアーティストのために確保してください。」欧州文化首都の成果は、一過性でなく、持続し、継続的に発展すべきであるという問題意識を私たちは共有していた。そこで、欧州文化首都開催を契機に「日本からマテーラへ、マテーラから日本へ」同じ分野で活動するアーティスト同士の交流を後押しする「パスポートプログラム」が誕生した。欧州文化首都に公式参加できなかったアーティストたちに対して、このプログラムを活用し、今後の交流を支援することが合意された。
マテーラには欧州文化首都が閉幕した後、新たな財団が誕生した。今後の活動の継続を支援することを目的とする組織だ。その名も「マテーラ3019」。
千年後のマテーラが楽しみだ。奇跡はまだまだ続く。
東西文明の十字路、プロヴディフ
もう一つの欧州文化首都、ブルガリアのプロヴディフは、6千年の歴史の上に立っている。東にトルコ、南にはギリシャから始まるバルカン半島が構えている。すべての文明はこの町を通過し、北へ、西へと向かった。
欧州文化首都の開催を契機に、この町の深い歴史に光が当てられた。私たちは、プロヴディフ地域考古学博物館で調査研究が進んだ結果の偉容を目の当たりにした。市内のバシリカ遺跡でも、古代の本格的な発掘調査が始まっていた。
また、古代ローマ劇場で上演された新作能「オルフェウス」は、山本能楽堂とブルガリアの演劇人が20年以上もかけて培ってきた交流が見事に結実した舞台だった。古代ギリシャ神話と能の幽玄が調和し、この挑戦は、私たちが過去から現在、未来へと繋がっていることを教えてくれた。
現在のプロヴディフは80を超える民族が暮らすグローバルな街だ。「Together」とは、欧州文化首都の重要なテーマである。それを見事に体現したのが、カッパーナ創造地区の取り組みだ。中長期的な視点で街の風景を持続可能に変遷させ、この地区が持つ潜在的な力を掘り起こすことを目的とした。この地区は、ブルガリア初のクリエイティブ産業地区に開発されており、分野を横断した様々な試みに挑戦している。世界から来たアーティストたちとのコラボレーションも数多く、年間を通じたレジデンスや公募プログラムを通して、創造的な実践の場としての試行錯誤も続く。
ブルガリアのEU加盟は2007年とかなり遅れた。旧体制の産業構造もあり、ドイツやフランスなどへの人材流失もこの国の大きな課題だった。しかし、近年、そのハンディキャップを逆手にとったIT分野の躍進には目を見張るものがある。その勢いは、この地域が「ヨーロッパのシリコンバレー」とまで、評価されるほどである。最近になって、日本の大手ゲームメーカーが200人近いブルガリアの若手IT技術者を雇用し、研究開発に着手したことも話題になった。
プロヴディフで開催されたプログラムの全ては紹介しきれないが、最後に一つだけ触れておきたい。日本とブルガリアの少年少女による合唱交流である。米子から参加した山本きずなさん(8歳)のレポートにはこんな文章が綴られていた。「お母さんが一緒でないので、ホームステイはドキドキしていました。でも、お別れの時まで日本の家族を思い出さないくらい楽しくできました。私がさみしくならないようホストファミリーの皆さんは、いつも面白いことをしてくれました。その家族のお祖母さんは料理がとてもうまく、いろいろな言葉も教えてくれました。私のことを骨が折れそうなくらい強く抱きしめてくれました。」と楽しかったブルガリアを振り返っていた。グローバル世代の若者には、一人一人の個性の違いはあっても、超えるべき壁や国境は最初からないのではないか。8歳の彼女のレポートがそう教えてくれている。私たち大人が、古い概念を彼らに押し付けていたのではと反省することも多い。私たちは、若い世代の交流が未来への懸け橋になると確信している。
3月11日に考えたこと
2019年を振り返って、このレポートを書き始めた日、すなわち2020年3月11日WHOはコロナウィルスの世界的流行「パンデミック」を宣言した。思えば、9年前のこの日、大地震と津波が東日本を襲った。犠牲者は2万人にも及んだ。さらに75年遡れば、3月10日米空軍は戦争史上例を見ない大規模な無差別空爆を行った。東京は一夜にして焦土化し、10数万人の無辜の市民が犠牲となった。歴史をほんの少し振り返っただけでも、私たちの生活は昔から平和と安定の中にあった訳でないことが分かる。これからも同様に戦争、大災害、パンデミックなど、私たちを脅かすことは繰り返すと考えておいた方がよいであろう。コロナウィルスが世界を震撼させる中、イタリアの高校の校長は、休校中の生徒へメッセージを送った。「ペストが流行した17世紀のイタリアと同じような混乱が今日の新聞に出ている」と嘆いた。「こんな時こそ良い本を読んでほしい」と勧めた。「集団の妄想に惑わされずに、冷静に十分な予防をしたうえで普通の生活を送ってほしい」と呼び掛けた。そして、「ペストが流行した時代と違い、今は近代医学がある。人間性や社会性といった私たちの貴重な財産を守るために合理的な考え方を持とう。そうでないとペストが勝ってしまうかもしれない」と結んだ。コロナウィルスにより、世界経済は大打撃を受けた。多くの国際線はキャンセルとなった。一時的とは言え、これはウィルスとの戦争であり、実態は世界大戦と変わりない。そんな中、国家間の非難の応酬も始まり、フェイクニュースなど様々な情報も飛び交う。しかし、情報化が進んだ今、私たちはメディアやインターネットを無条件で信頼していない。現代の情報ジャングルの中で、どのように生きてゆくのか、私たちはすでに新たな潮流から学んでいる。
パンデミック宣言で考えたこと。
確かに、今日現在、私たちは不安と恐怖の中にいる。少なくともメディアは連日そう騒いでいる。果たして、それに同調してよいのか。かつて、マザーテレサは「あなたたちは忙しすぎる。微笑むこともできない。」と現代人に警鐘を鳴らした。世界中で社会生活が極端に縮小されているが、この騒動は、神が私たちに立ち止まって考える時間や機会を与えてくれたのではないかと考える。
私たちが守るべきもの
歴史を俯瞰して考えてみると、今の騒動は、何万ページにも及ぶ人類の歴史書の1ページにしか過ぎないことに気づかされる。例えばEUを揺るがしている難民問題。トルコは2016年EUと協定を結び、シリア難民を自国内に止め欧州への流れを抑えてきた。しかし、最近になってシリア北西部でトルコ軍とロシアの支援を受けるシリア軍との衝突が始まり、再び多くの難民がトルコに流入し始めた。ヨーロッパを目指す370万人のシリア難民がトルコで避難生活を送っている。ギリシャとの国境は、越境を試みる難民たちで溢れ、国境警備に緊張感が走る。歴史を遡ると、ゲルマン民族の大移動をはじめ、人類は移動の歴史を繰り返してきたことが分かる。多民族の侵略、より安全で豊かな生活への欲求、疫病の蔓延など、その理由は様々だ。しかし、現代の難民と本質的には何ら変わらない。
一方、近年、自国ファースト、ナショナリズムが勢いを増してきた。中国、ロシア、ブラジルなどの大国では依然として、反自由主義的な国家主義の指導者による強権政治は続く。プーチン大統領はメルケル首相の失権、EUの混乱を取り上げ「もはや自由主義は役に立たない」とまで言い切った。確かに、強権政治では、異論や反論を封じ国家統制の下、短期的に経済発展が期待される。しかし、どんな強大な権力を誇っていても、永遠には続かない。いつか朽ち果てる時期は必ずやってくる。老子は「勢いづいているものは、それをさらに勢いづかせると、早く萎むことになる。強大な権力には、もっと強い力を持たせると一遍に崩れ去る。」と語っている。
私たちが危惧しているのは、強権政治によって、人権、表現の自由、民主主義、法の支配がないがしろにされ、芸術の本質がゆがめられることだ。芸術が何故大切なのか。私はこう考える。世の中にモノが溢れ、安全で安心な生活が続くといつしか人間は日常の表面的な出来事に目を奪われ、自分の内面の奥深くある根源的なことに向き合うことを死の瞬間まで忘れてしまいがちになる。芸術はそのことを気づかせてくれるのだ。芸術も私たちが守るべきものの一つである。
対立と分断の世界に橋を架ける。担い手は私たち一人ひとり。
1945年、第二次世界大戦が終結し、音楽の都ウィーンも爆撃で瓦礫の山となっていた。多くの公共の建物は破壊されていたが、驚くべきことに、あるいは当然かもしれないが、ウィーンの市民たちが何よりも優先し再建を願ったのは国立歌劇場であった。今年、ベートーヴェン生誕250年を迎える。今なお、彼の音楽は万人の魂を揺さぶる。私たちが心豊かになれるのは、物質的な喜びからだけではない。何百年も人々に愛され、精神的な喜びを与えてきた音楽、美術などの作品群は枚挙にいとまがない。さらに2千年以上も前のギリシャ悲劇、東西の哲学などは現代においても大切な存在だ。また、現代のアーティストも時代の先を行き、異なる視点で私たちの現在を表現する。未来への懸け橋としての現代アーティストの存在も忘れてはならない。私たちの活動は、1993年日本のバブル経済が崩壊した状況で立ち上がった。草創期に実行委員長を務めた豊田英二さんは82歳となっていたが、人生最後のご奉公と大役を引き受けてくれた。彼は私に言った。「トヨタは努力を重ね、将来世界のトップ企業となるだろう。しかし、その時、社会に芸術家、音楽家、詩人がいなくなっていたとしたら、生きることに何の意味があるだろう。」私たちの活動は、欧州文化首都から日本政府に寄せられた支援要請が断られたことから、日本の経済界や駐日ヨーロッパ各国大使などの有志によって始められた。この28年間で46の欧州文化首都に参加した日本人アーティストや青少年は3万1千人を数える。13社の支援で始まったこの活動は、今や100社の支援へ広がった。支援企業の担当者も芸術活動に関心を示し、忙しい業務のなか、昨年は1,500人以上がアートプログラムを楽しんだ。
現在、世界中の国境が閉鎖され、あらゆる芸術活動も縮小、中止を余儀なくされている。人間の喜びや楽しみが奪い去られようとしている中、多くの新たな取り組みも始まっている。滋賀県の芸術劇場で予定されていたオペラ『神々の黄昏』は、何とか多くの人々の期待に応えようと無観客で上演を断行し、その様子をネット配信した。主催者だけでなく全国のファンの熱意も事態を動かした。2日間の上演で観客席の100倍を超える36万人がこの映像を楽しんだ。その間、オペラの各場面の対訳を6時間に渡ってTwitterで発信し続けたボランティアもいて感動を増幅させた。
3月3日には、東京に欧州文化首都11都市が集まり、500人のアーティストのためのプレゼンテーションが予定されていたが同じく延期となった。しかし、11の欧州文化首都はプレゼンテーションをネット配信し、アーティストたちは新たに設けられたポートフォリオサイト「Meet Up European Capital of Culture」に次々と自身の活動内容を登録し始めた。結果として、より多くの人々がお互いを知り、より多くの可能性が生まれた。
後に南アフリカの大統領となったネルソン・マンデラ氏は、28年間の独房生活の中で次の言葉を残した。「恐れはしない。門がいかに狭かろうと、いかなる罰に苦しめられようと、私は我が運命の支配者、我が魂の指揮官なのだ。」
現在、多くの人々が困難と恐怖の中にある時、一人一人の心の在り方が問われている。一人一人の力は小さいが、少なくとも周囲の人間に情熱を伝えることができる。周囲の人間が集まれば、より多くの人々に勇気を与えることができる。連帯や絆を実現させるには、具体的な連携や連動が大切だ。
生きるということは、呼吸することではない。行動することなのだ。