コラム
Column芸術の勝利をもたらす蝶々の繊細さ
原作『蝶々夫人』をベースにした舞台演劇への創作意欲を掻き立てられることは、至ってたやすく自然なことといえるでしょう。世界的に有名なジョン・ルーサー・ロングの短編小説『蝶々夫人』は、その誕生以来、無数の芸術家達に舞台づくりへのインスピレーションを与えて続けていますが、なかでも間違いなく最も著名な作品といえば、ジャコモ・プッチーニのオペラが挙げられます。若い日本人少女のアメリカ人士官に寄せた誠実かつ強烈な命をかけた愛、それに対して彼が感じていたのは束の間の恋の冒険。親族からの干渉、風習や文化的な違いによる苦悩、出産、母性の美しさ、女性の絆、そしてその一方でジェンダー不平等、裏切り、生きることの苦しさがこの物語の普遍的な主題となっており、それらは私達が新古典派バレエとしてこの作品を舞台化する上でのインスピレーションでもありました。
©Serbian National Theatre/Photo by Srđan Doroški
Scene: America/ Dancers: Ensemble of SNT
芸術監督のトニ・ランジェロヴィッチ氏を筆頭とした、志を共にするセルビア国立劇場バレエ部門の同僚達に加え、ザンクト・ペルテンのヨーロッパバレエ団の盟友との出会いにより、確固とした制作と芸術面の基盤が生み出されました。私は2年間以上の歳月をその経緯に関わりながら過ごして参りました。本プロジェクトの重要性とスケールは、すぐさま両国の国や市の主要な大手機関の注目を引きました。特に欧州文化首都ノヴィ・サド2021-2022実行委員会は、私達が扱う題材を耳にし、私達とEU・ジャパンフェスト日本委員会事務局との連携をご提案くださいました。私は古木修治氏率いる日本の仲間達のご対応とご尽力に、とりわけ感謝申し上げます。
数十年にもおよぶ日本人とセルビア人を結ぶ友好的な絆は、殊に過去30年間において、両国に訪れた幸せなひとときも悲しいひとときも、大切でかけがえのない存在となっています。セルビア国立劇場アンサンブルでは、日本人ダンサー達が、常に当アンサンブルにおいて重要かつ有意義な役割を担ってきました。喜ばしいことに、そのうち何名かは、ノヴィ・サドに自分たちの新たな本拠地を見出しました。相違点は包括的に克服され、文化への知識が深まり、生涯の固い友情が築かれ、また親愛の情へとつながっています。
©Serbian National Theatre/ Photo by Srđan Doroški
Scene: Yamadori/ Dancer: Naoyuki Atsumi
世界的なパンデミックが始まった際、代替の余地なく優先されたのが、健康と雇用の確保でした。とはいえ、昨年何ヶ月にもわたって、我々に待ち受けていたものは何なのか、そして我々が闘っていた敵とは何物なのかが誰にとっても未知であったことから、私達は本プロジェクトの未来を非常に案じていました。それでも、本プロジェクトに参画するすべての関係者にとって断念という選択肢はなく、芸術、特にバレエを含む全世界に強いられた状況を踏まえながら実現に向けて継続していくために、可能な限り多大かつ専心的な取り組みあるのみ、というのが共通の見解でした。バレエ芸術とバレエアーティストは、人同士の接触という独特な性質を伴い、それ無しにはこの気品溢れる踊りを上演することが不可能であることから、あらゆる舞台芸術およびアーティストのなかでも羨望からは最も程遠い立場に置かれていました。それでも、私達はそうした問題をも乗り越えました。そして私達は成功を勝ち取ったのです。
これまで述べたすべてからいえるように、私達の『蝶々夫人』の活動の実現プロセスは、本物の蝶の誕生になぞらえることができます。私達は、構想からプレミア公演に至るまでの蝶の変態のあらゆる局面に際して、優しく大切に守りながら、力強くかつ極めて注意深く取り組まなければなりませんでした。今回のオリジナル作品の制作において重要な部分といえたのが、地上界に降り立ち人間の感情に触れたいと望んだ、日本古来から伝わるかぐや姫のおとぎ話との融合でした。ステージは、手描きで彩られた日本家屋や地理的風景の絵画のプロジェクションと、竹島由美子氏によるスケッチと裁断、素材、色彩に基づいて仕立てられた衣装で織り成され、厳選された伝統的な日本人作曲家による楽曲が添えられたことにより、参加者と観客は、暫し日出ずる国へと場所を移したかのような感覚を味わいました。私達の地球の西洋諸国で有効とされる価値観とはまったく異なるその美は、米国の消費社会と浅薄さが生み出すコントラストにより、よりいっそう鮮明に映し出されました。
©Serbian National Theatre/Photo by Srđan Doroški
Scene: Time passes/Dancers: Ensemble of SNT
私達は、平等でプロフェッショナルかつ創造性豊かな絶好の環境を整え、醸成しました。誰もが注いだ努力や取り組みを見劣りさせるつもりはありませんが、卓越したバレエ技術とともに、ひときわパワフルな感情表現で蝶々さんの役づくりを築き上げた、セルビア国立劇場プリンシパルバレリーナのアナ・ジュリッチ氏と、ヨーロッパバレエ在籍のソリストの柴田二千翔氏の二人の蝶々達に特別な称賛を送りたいと思います。仲間の共演ダンサー達とともに、彼女達のダンスは、あらゆる年齢層の観客にカタルシス効果をもたらしました。
欧州のこの地域における唯一の国際的共同制作バレエプロジェクトとして、『蝶々夫人』は2回のプレミア公演を披露しました。ひとつの要因が経済性であったことは確かです。というのも、セルビア国立劇場の大ステージ「ヨヴァン・ジェルジェヴィッチ」は、935名の観客を収容可能ですが、今回のパンデミックによって課せられた規制により、会場定員の50パーセントの受け入れが許されるに留まったためです。2回のプレミア公演を実施した第一の理由は、紛れもなく芸術性よりも共同制作の性質によるものです。いかなる場合でも両バレエ団のソリストらが築き上げた役柄が、交互に鑑賞されることはありませんでした。観客はそのことを認識していました。これまでノヴィ・サドで上演された三度の公演の各回に際して、より多くのチケットの申し込みをいただきました。オーストリアでのプレミア公演が目前に控えています。そして日本でも上演されることを願っております。
©Serbian National Theatre/Photo by Srđan Doroški
Scene: First wedding night/Dancers: Nichika Shibata and Florient Cador
ノヴィ・サドおよびセルビア国立劇場は、最高のバレエ観客に恵まれています。これらの皆さんの愛情と愛着、ご支援、批評に支えられ、私達は制作全般において最善を尽くし、革新性を追求し、クオリティの水準を引き上げ、高レベルを維持すべく、絶えず邁進しております。セルビア国立劇場の芸術監督、トニ・ランジェロヴィッチ氏に特段の謝意を述べたいと思います。ランジェロヴィッチ氏は、自らのダンサーとしての輝かしい経歴のほとんどをセルビア国立劇場で過ごしてきたことから、アンサンブルと当劇場に秘められた可能性の両面に加え、バレエ芸術について心底から知り尽くしています。氏による長年にわたる巧みな企画や演者のトレーニングへの投資、芸術的多様性に富んだレパートリーづくり、さらには共同制作者への配慮により、セルビア国立劇場は世界のあらゆるステージに立ち、公演先の都市と国の誇りとなり得る舞台作品の数々を生み出しているのです。
『蝶々夫人』とともに。私達は安心して彼女の羽の上に乗り、そして今まさに芸術の勝利を祝し、世界各地を飛び舞おうとしているのです!