南エストニアの森と音楽の祭典「アイグ・オム!」

橋本安奈|アイグ・オム!2024 プロジェクトチーム メディア・コミュニケーション

手つかずの森が広がり、伝統文化と音楽が生活のなかに根付く、南エストニアのヴォル地方。毎年夏に開催される「アイグ・オム!(AIGU OM !)」は、村全体を舞台に、森歩きやワークショップ、コンサートなどが開かれる、南エストニアらしい音楽フェスです。この土地特有のゆったりとした時間が流れます。

「アイグ・オム」という言葉は、ヴォル地方の方言で「時間(=Aigu)がある(=Om)」の意味。「ゆっくりいこうよ」という意味合いをもち、地元の人はこの言葉を口癖のように使います。ヴォルはエストニアの首都タリンから250kmほど南下した辺境の地であり、ゆっくりなペースやマインドセットで暮らしを営む人が多い地域。「アイグ・オム」は、ヴォルでの生活を象徴する言葉です。

「アイグ・オム!」のロゴは、カタツムリがモチーフ。©Birgit Pettai

 

アイグ・オムの主催者は、名実ともにエストニアを代表するシンガーソングライターであるマリ・カルクン(Mari Kalkun)さんと、国営のネイチャーセンターで働くターヴィ・タッツィ(Taavi Tatsi)さん。マリさんを中心にした音楽のパフォーマンスと、ターヴィさんが主導する森でのアクティビティの二軸がメインプログラムです。そして、地元の人やヴォルに縁のある人が自主的に立候補する出店やワークショップも。こちらは、地域内外の人にヴォルの伝統文化や郷土食などを伝える機会になっています。たとえば、古くから受け継がれているスモークサウナの体験や、ハーブの活用法を学ぶワークショップ、地元のおかあさんやおとうさんが得意料理を販売するホーム・カフェ、湖で行われるヴォルの伝統漁の大会など。南エストニアでしかできない体験が詰まっています。

 

白樺やハーブといった植物からサウナウィスクを作るワークショップも。©Birgit Pettai

 

コンサート会場は、石造りの大きな納屋でした。マリさんの家族が先祖代々受け継いできた建物で、少なくとも19世紀の終わり頃からあり、農場の納屋として穀物や干草を保管していた時代、地元の人が通う食堂として賑わっていた時代を経て、コンサート会場に。驚いたのは、座席が干草だったことです。ふかふかとしていて、その香りが会場中に漂っていました。マリさんが言うところ、「エストニア人にとって干草の匂いは、子ども時代の記憶」。夏休みに田舎で遊ぶとき、農場や納屋にはいつも干草があったことから、ノスタルジックな香りなのだそうです。

 

築120年以上の納屋をリノベーションしたコンサート会場。©Jassu Hertsmann

 

その香りに包まれながら聴いたのは、太古を感じさせるような民俗/民族音楽と現代的なアンビエント・ミュージックが融合した、不思議な世界観をもつ音楽でした。マリさんは、エストニアの民俗音楽を現代人の感性に合わせてアップデートし、リバイバルさせた人物のひとりです。エレキギターとエレキチェロがつくりだす都会的なサウンドとループするリズムに、マリさんの清らかで力強い歌声が重なって、瞑想的な雰囲気がつくりだされ、観客は惹き込まれていきました。ちなみに、この干草の客席は地元の人が準備したもの。夏に大量につくられる干草を利活用したいという思いで考案され、ライブが終われば牛や馬など動物の飼料になるそうです。会場に投影されたビジュアルアートと干草の座席、またアンビエント・ミュージックと民俗音楽など、古いものと新しいものが併存し、融合しているところは、アイグ・オムの独自性かもしれません。

 

スペシャルゲストとしてギタリストの井上新さん、チェリストの斎藤孝太郎さんがマリ・カルクンさんと共演しました。©Jassu Hertsmann

 

毎年テーマが異なるアイグ・オムですが、今年のテーマは「日本」でした。日本から音楽家や自然に関わる専門家が招聘され、日本文化に関するワークショップなども開催。森のイベントにゲストとして日本から招かれたのは、山伏でアーティストの坂本大三郎さんと、「森の案内人」の三浦豊 さん。「エストニアと日本の、自然観や自然信仰の隠れたつながりを見つけたい」というエストニア 側の意向がありました。森歩き、瞑想のワークショップ、講演、芸能の披露などを通して、エストニアの森の文化と、日本の山の文化が出合いました。また、森に関連する古い風習などの共通性について、日本とエストニアの専門家のあいだで示唆に富んだ対話が交わされました。

「日本のチームがたくさんのインスピレーションをもたらしてくれた」と主催者のターヴィさんは話していました。たとえば、エストニアにも日本にも、木や森を神聖とみなす風習があること。南エストニアの「十字の木(Ristipuu)」という民間信仰や、日本の「森・モリ・杜」という言葉が入った地名や風習などの共通点などが話されました。

坂本大三郎さんは「日本ではよほど探さなくてはいけない美しい光景がエストニアにはすぐそこにある」と、南エストニアの手つかずの自然に感動していました。エストニアの森のなかを歩くと、土が柔らかくてふかふかしています。これは、三浦豊さんが言うには「土のなかに菌類や動物など多くの生き物がいて、呼吸をしているから」なのだそうです。

遠く離れた日本とエストニアですが、参加者の間では人びとの自然との向き合い方に何か通じるものがあるのではないか、という会話が交わされました。西と東の文化が森や音楽を通じて出会う試みから、これからもきっと深い理解や交流が生まれていくと信じています。