足を前に踏み出すために:スプリング・フォワード2024歩行記

植村朔也|DaBY/ProLab 第1期 乗越たかおの“舞踊評論家[養成→派遣]プログラム受講生

スプリング・フォワードのあいだ、私たちはたいへんよく歩いた。メインプログラムが設けられた3月の21日から23日にかけて、私たちは一日につきおよそ6~9作品を観劇したのだが、公演はダルムシュタット、マインツ、そしてヴィースバーデンの三都市にわたって行われたので、各都市に点在する劇場を渡り歩くようにして過ごすことになったのだった。スプリング・フォワードの開催地は年次によって異なるが、それでも複数都市を跨いで公演をするのは原則として守られているということだ。劇場同士はそれなりに距離があるのでバスも当然使われたが、ドアトゥドアで送迎されることは少なく、足を使って移動することが前提されていた。

公演と公演の間に、歩き、思考し、歓談するための時間が、まとまった長さで挿入される。そう、その歩行の意味は単なるエクササイズにはとどまらない。スプリング・フォワードは招待制のフェスティバルで、私たちは三日間を通じて三十名前後の同じグループで移動していた。ダンス・コミュニティの紐帯を促進する身体を伴ったコミュニケーションがそこでは期待されていただろうし、また実際、私たちはよく話した。

一方で、劇場の中では、歩行の身振りがこの現代社会のなかで抽象化される局面をとらえた作品が、群を成して続いたことが印象に残った。

アンナ=マリヤ・アドマイティテ&ゴーティエ・トイシャー/A M Aカンパニー(Anna-Marija Adomaityte & Gautier Teuscher/Cie A M A)『ワークピース(workpiece)』は、労働に疎外され、環境との有機的なつながりを失って抽象化・断片化していく身体を、ルームランナー上の歩行と痙攣を通じて表現した。

トレヴォガ(Trevoga)の『11 3 8 7』は、ゲームのアバターを思わせるような、ホバリングするかのように小刻みに上下に揺れる身振りがほとんど常に繰り返されているのだが、ここでもまたルームランナーが重要な舞台装置として使用されていたことが印象深い。どこにも移動することなくただ歩みを繰り返すという異様な、しかしゲームアバターについて言えばしばしば散見されるあの挙動を再現するために選ばれたこの器具は、ここでも歩行という身振りを抽象化し、非現実化する働きをしている。

カタリーナ・ミランダ(Catarina Miranda)の『カブラキメラ』(Cabraqimera)は、光るローラースケートを履いた4人組のダンサーたちの演舞で、見事なターンを決めるところなど、フィギュアスケートやクラシックバレエの所作を思わせもするのだが、ここでは人間の身体の美を示そうという意図はむしろ希薄であったように思われる。というのは、赤や青のボディスーツにヘルメットをかぶって非個性化されたダンサーたちの身体は、同じく照明で赤や青に染め上げられ、またときに暗闇に包まれた空間の中へと溶けていくようだったし、発光するネオンを仕込んだスケーターやマウスガードが描き出す煌びやかな軌跡の方が、むしろ私たちの目を惹きつけていたからだ。接地をこばむ軽やかな身体を表象することはフィギュアやバレエと同様だが、ここではその軽さが、身体のヴァーチュアリティを強調するのに奉仕している。

これらの作品では、AIが人間の仕事や思考を代理し、存在のメタバースへの移行が唱えられ、現実の風景ではなくデジタルデバイス上の眺めが経験を代理するこの時代にあって、身体というものを前提にダンスを考えることへの疑念が表明されていたと言っていい。そして身体の明証的なリアリティが疑われて問いに付される時、その問いは足もとから始められるというわけだ。その上でそうした身体への問いが、映像メディアや最新のデジタル技術を介することなく、徹頭徹尾ローテクな装置や仕掛け、あるいは身体それ自体を通じて模索されていたという逆説が興味深い。私たちは身体から完全に逃れられはしない。あるいはこうも言える。身体は疑われはするが、諦められてはいないのだ。

さて、このスプリング・フォワードが派遣先に設定されていることから、【DaBY/ProLab 第1期 乗越たかおの“舞踊評論家[養成→派遣]プログラム”】(以下、[養成→派遣]プログラムとする)の特色が説明できるように思う。ひと口に言えば、機動力と批評眼を同時に兼ね備えた批評家の涵養である。

まずスプリング・フォワードでは、ヨーロッパの若手作家の作品を集中的に観ることができる。これから海外圏でのムーブメントを牽引していくであろう作家たちの作品にいち早く触れることができる機会であると同時に、そうしたいまだ評価をエスタブリッシュされきっていない作家たちをどう観るか、その眼が問われる場でもあるというわけだ。また冒頭でも書いたように、スプリング・フォワードは招待制のフェスティバルで、ヨーロッパ中のディレクターや作家、若手ライターたちとほとんど常に行動を共にすることになる。今回の派遣では、彼らとの交流を通じて海外へとネットワークや知見を広げていくことが、作品鑑賞に劣らず重要な要件として前提されていた。

まだ見ぬ場所へ足を伸ばして経験を重ねることが必要だ。これは、国内での講義から今回の派遣に至るまで、プロジェクトのメンターである舞踊評論家の乗越たかおさんから、私がひしひしと受け取ってきたメッセージである。言葉で書くのは簡単だが、実行に移すのは容易ではない。個人主体での遠征の経済的なハードルは今後ますます高まっていくことが予想されるが、批評家の国外との交渉を促進するプラットフォームはこれまでほとんど存在していなかった。[養成→派遣]プログラムは私のような若輩者のみならず、中堅やベテランを含めたあらゆる批評家にとって意義あるものとなるだろう。これは、持ち前のフットワーク、ネットワークを駆使して仕事をされてきた乗越さんのこれまでの蓄積があってこそ実現したものだ。[養成→派遣]プログラムを後援し、私たちの海外派遣にかかわる経費を援助してくださったEU・ジャパンフェスト日本委員会の心意気も、ありがたい限りである。足を前に踏み出したいと願う書き手たちの支えとして、[養成→派遣]プログラムが今後も長期的に継続されるよう、それは大変な仕事でもあると思うが、ともかくも願い、応援している。