コラム
Column代替可能なコンテンツと相互調和:日本からヴロツワフへ
ポーランドのヴロツワフで育った私は、魅力に満ちた人々、そして芸術的エネルギーを伝播し、絶えず自らの視野を広げたいという彼らの魅惑的な欲求が、この都市の原動力となっていると常に感じていました。私は、意欲旺盛な主催者の真摯な取り組みと、集まった聴衆や観衆の活気溢れる関わりを目の当たりにしました。最も面白いと感じたのが、世界各国の人々がヴロツワフを訪れ、観客としてのみならず、自らがアーティストとなってこの都市の生活に参加していたことです。現代アートという領域が自分にとって最も身近な存在であることは常に知っていましたが、やがて私が最も探究したいのがメディアアートであるということに気づきました。私は、最新のテクノロジーを実にさまざまな斬新かつ興味をそそる方法で駆使する人々に好奇心を寄せていました。彼らはそうした手法を通じて、私には想像すらつかないであろう最高に素晴らしい可能性を探究するのです。
WROアートセンターの運営チームに加わった私は、2023年開催の第20回WROメディアアートビエンナーレという大規模な複合的イベントの主催者側に立つ機会に恵まれました。1989年以来、欧州最大のメディアアートフォーラムのひとつとしての長く誇り高い歴史を知り、私は光栄に感じ、興奮しました。世界各地の70名を超えるアーティストによる80点という輝かしい数の作品が、我が都市14ヶ所の異なる文化施設で発表されました。今回の開催で主要な概念となったのが、さまざまなレベルでの対話を開始し、互いに同調することにより、アーティストと観客とテクノロジーを結ぶ象徴的コンテンツを共有し話し合うというものでした。私達が本プロジェクトの構想初期段階から「attunement(調和、同調)」という極めて特定の言葉を使い始めたのは、それが私達の達成したいことを最も的確に表していると感じたからです。私達はこの言葉を、相互調和を築くこと、そして他者のみならず未だ不可解なテクノロジーとの関わりのなかで生まれる反応性や絆を理解することとして解釈しました。私が思うに、この主要な概念を最も関連深く表現していたのが、日本人代表者の作品と彼らの存在といえました。彼らは比較的短い滞在期間中に、さまざまな面でイベント全体の認識にインパクトをもたらし、彼らの画期的な作品は、帰国後も長らく議論を醸し出しました。
私自身の体験を述べさせていただくにあたり、山内祥太氏と同氏のパフォーマンス作品『The Dancing Princess(舞姫)』から始めたいと思います。私が作家と初顔合わせする機会となったのは、オープニングの数日前のことで、ほとんどのクリエーターがヴロツワフに到着し、重要な日を控えてさまざまな準備を整えているときのことでした。とはいえ、山内氏がWROビエンナーレで作品を発表するのが今回で3度目となることを知っていたため、私はだいぶ前から彼について伺っていました。作家と幹部チームの絆の顕著さは、一目瞭然でした。『The Dancing Princess』は、オープニング期間中、グロトフスキ研究所のラボラトリー・シアターを舞台に6公演行われ、国立クラクフ演劇アカデミー(ヴロツワフ分校)出身の3名の異なるポーランド人学生が日本人作家との見事な共演を果たしました。作品自体は、人間とテクノロジーのロマンスを模索する内容でした。巨大なゴリラの姿とその皮膚が、何故かスクリーンの反対側のパフォーマーの皮膚と相互一体となる光景は、限りなく魅惑的で、また示唆に富んでいると私には感じられました。私はそのうち3公演を鑑賞しましたが、時間に限りがなければ、もっと観ていただろうと思います。また、回を重ねるごとに観客の規模が予想を上回っていたことから、そう考えていたのは私一人ではなかったことが窺えます。
石田大佑氏と古舘健氏は、サイン・ウェーブ・オーケストラを代表し、IPスタジオで『A Wave』を披露するため、ヴロツワフを訪れました。彼らの作品は、メディア消費と利用者が受ける過剰な刺激について問題提起していたことから、私は一人の若者として、この作品が極めて意義深いと感じました。驚くべきことに、波打つような画像が映し出される巨大なスクリーンを眺め、混ざり合う音声を聴きながら、疲弊を感じませんでした。それどころか、何故か気持ちが落ち着き、寛いだ気持ちになれたのです。しかし、サイン・ウェーブ・オーケストラのヴロツワフ滞在について私の記憶に留まるのは、作品そのものだけではありません。オープニング期間中に私が関わっていた活動のひとつに、WROアートセンターの記録を目的とした短いアーティストトークの実施がありました。自らの作品が誰に向けたものであるかについて、二人の作家が合意できなかったことが非常に興味深いと思いました。そのうちの一人が、彼の考えでは、ターゲット層はまったく限定していないと語る一方で、もう一人は、作品が彼自身にもたらすパーソナルな気持ちに共感できる特定の個人にこの作品を捧げていると述べました。私は、後者が話していた内容が、代替可能なコンテンツと調和という概念に絶妙に共鳴していると感じました。このトークがさらに特別だったのは、二人目の回答が作家の母国語でなされたため、通訳者にお話を伺ってはじめてその意味を理解できたことです。
日本人作家による3つ目のプロジェクトの概要を初めて読んだ際、私はそれが抽象的であると感じたと同時に、心掴まれるものがありました。しかしゲッパート・ギャラリーで『かぞくっち』を鑑賞するうちに、私はその複雑性と革新的特徴をすぐさま理解できました。家、家族、異世代の人工生命体などすべてを包含する文明は、私に、技術の発展によりやがてまったく新たなレベルに達し得る社会というテーマに対し問いを抱かせるきっかけとなったのです。本展のオープニングは5月10日に開かれ、その際、菅野創氏、綿貫岳海氏、加藤明洋氏が各自のアイディアを観客に向けて解説を行ったのですが、極めて強力な印象を受けたのは、私だけではないと絶対的な確信が持てました。後に私自身が来場者に作品をご紹介する機会があり、私なりの解釈をお伝えしたところ、それが大いに興味深い議論を発しました。
第20回WROメディアアートビエンナーレは、成功を収めただけでなく、多面的な喜ばしい驚きとなり、私は、作品ならびに日本人アーティストの存在が、それに著しく寄与したものと固く信じています。主催者チームの一員である私にとって、忘れがたい啓発的な経験となりました。