コラム
Column事務局からの報告
「あなたは誰ですか?」
人間が生を受けることは、死を迎えることを運命づけられることだ。生まれた瞬間「誕生」から、生涯の終り「死」に向かって歩み続ける。私達の生命が永遠ではないからこそ、今を生きる一日一日がとても大切に思える。
インド人の宗教家が次のような話をしている。興味深いたとえでここに紹介したい。ある婦人が、死を前に神の前に立った。そして、両者の間に質問と回答が繰り返される。
「私は市長の妻でした。」
「いえ、誰の妻だったかを訊いているのではない。あなたは誰ですか?」
「私は昔教師をしていました。」
「いえ、職業を訊いているのではない。あなたは誰ですか?」
「私は金持ちでした。」
「いえ、裕福だったかを訊いているのではない。あなたは誰ですか?」
「私は4人の子供の親でした。」
「いえ、誰の母親だったかを訊いているのではない。あなたは誰ですか?」
「私は、カソリックでした。」
「いえ、宗教を訊いているのではない。あなたは誰ですか?」
「私は、ボランティアなどもしていました。」
「いえ、何をしていたかを訊いているのではない。あなたは誰ですか?」
彼女は完全に答えに行き詰ってしまう。そこで神は静かに語りかける。
「もう一度、地上に戻り、自分が誰だったかを学んで来なさい。」
気づくと彼女は生きていた。
人間は順境に生きようが、逆境に生きようが、意識しようがしまいが、人間皆等しく、生涯に渡って、この問いに向きあっていることは間違いない。
「2011年3月11日14時46分。」
大地震が発生した。この時刻は、永く歴史に刻まれることだろう。そして、その直後に続いた大津波は、東日本の太平洋岸の街々に襲いかかり、想像をはるかに超えた大自然の脅威を目の当たりにして、私達は茫然自失となった。私達は、大自然が破壊と恵みの極端から極端へ翻る絶対的な力を持っているという現実に容赦なく向き合わされることとなった。
「被災地の仲間たちは?」
1993年、欧州文化首都アントワープ(ベルギー)に招聘された日本のアーティストや団体への支援を目的として、EU・ジャパンフェスト日本委員会の活動が始まった。それから18年の月日が流れた。様々な取り組みを通じて、日欧のアーティストや市民は交流を重ねてきたが、はからずも、今回の大震災で、この間に結ばれてきた絆の強さを実感した。地震発生直後、通信は遮断され情報も混乱していたが、時間を追うごとに事態が明らかになっていった。幸い、これまで活動を共にしてきた多くの東北の仲間たちの無事が確認された。しかし、安堵する間もなく、彼らが救助、救援活動の真っただ中にいることを知らされた。被災地の人々にとって、その日その日を生き延びることが直面した大きな課題だった。
「東北で闘う人々」
報道される被災地の状況を前に、遠く離れた東京にいる私達は、ほぼ無力であるかのように思われた。東北4県の東京事務所に連絡を入れても、大量かつ一括でない限り、救援物資の受け付けはできないとのことであった。事実、各自治体は物資を受け取っても、それを保管することも、ましてやそれを必要としている被災者に配布することまで、手が回らない状態であることは明らかであった。自治体の組織や体制は、必ずしも緊急災害を前提としているわけではなく、機能不全に陥っていたことは致し方ないことであった。被災地の仲間からの情報では、避難所には被災者があふれ、全ての物資が不足していた。
震災から3日目、福島県の奥会津書房の遠藤由美子さんから無事の連絡が入った。お話しをしているうちに、報道が私達に伝えていることは、悲惨な現実のごくわずかにしか過ぎないと感じた。ニュースは、被災者の数だけ何十万通りも存在していたのだろう。メディアで展開されるジャーナリズムや政治家たちの瑣末な非難応酬、責任の擦り合いは、質の悪いワイドショーのようであり、被災地で起きていることとは別世界のことのようにも感じられた。
幸い、会津地域は大きな被害は免れたものの、この地域には太平洋岸の被災地からの集団避難が始まっていた。遠藤さんが長年関わってきた福島県内の400近い市民団体で構成されている「うつくしまNPOネットワーク」の活動の存在を教えていただいた。彼らは、行政の関与がおよばない県内各地の中小の避難所、家屋に取り残された被災住民の救援活動を懸命に展開していた。遠藤さんたちが活動している会津は、いわき市などの被災の最前線の活動を支える後方基地として、重要な役割を果たしていた。そして、この活動は県境を越えて宮城県にも及んでいた。普段は芸術文化や教育、福祉の分野で活動している各団体が、この未曽有の災害において示した絆、団結の強さ、そしてその行動力には目を見張るものがあった。
「ガンバレ東北!!!」
東北の皆さんの奮闘ぶりが身近に伝わってくるにつれ、大きなうねりのようなエネルギーを感じはじめていた。たとえ、小さくとも私達に何かできることはないだろうか。東京から被災地への主要道路はすべて封鎖されており、救援物資の輸送は絶望的だった。しかし、現地との交信を重ねるうちに、一縷の光とも言える情報が舞い込んできた。東北道は使えなくとも、日本海側から入れば、新潟県と福島県との県境まで宅配便が稼働していることがわかった。早速、県境から数キロの新潟県阿賀町豊実でNPOコスモ夢舞台の代表として活躍している石彫家の佐藤賢太郎さんと連絡がついた。彼も同様にこの事態に出来うることを模索していた。東京から発送された救援物資、最初の12個の段ボールが、豊実に配達されたのは、3月15日のことであった。そして、佐藤さんの運転する2tトラックで会津坂下の避難所へとリレーで届けられ、発送から20時間足らずで物資は被災者に手渡された。その日から、東京を始め、全国の仲間たちによって物資の調達が行われ、次々と新潟県阿賀町の佐藤さんを経由し、会津そして甚大な被害にみまわれたいわき市や宮城県の東松島市の避難所へと兵站線が繋がっていった。いつしか、私達はこの全国の有志による草の根の救援活動を「ガンバレ東北!!!」と名付け、送られる物資のすべてに、この6文字をあしらったロゴが貼られるようになった。
私たちが被災者だったら、どうだっただろうか。彼らほど、強く生きられたかどうか。もう失うものは何もなく、懸命に闘っている人たちにどんな言葉が適切であったのか私にはわからない。「ガンバレ東北!!!」それが、手を合わせるような気持からとっさに出た言葉だった。
ここにヘレン・ケラーの言葉を紹介したい。三重苦という壮絶な困難のなかで彼女は闘い、そして、多くの人々を励ました。強固な精神力で生涯を貫いた彼女の生き様に、私は東北で困難と闘い不眠不休の救援活動をしている方々の姿が重なって見えた。
不幸のどん底にいる時こそ、信じてほしい。
世の中には、あなた方にできることがあるということを。
他人の苦痛を和らげることができるならば、
人生は無駄ではないのです。
ヘレン・ケラー
全国の仲間から物資とともに運ばれたのは、被災者への「思い」だった。そして、その思いを受け取った方々が闘っている姿から、私達が多くの勇気を受け取った。東北の皆さんが、強い意志で進む限り復興の道は開かれ、そのたくましさから、やがて日本全体がエネルギーを受け取ることになると確信した。
「再び問う。芸術が世界を救えるのか」
1990年代の初め、ユーゴスラビア内戦の砲火が飛び交う中、これまで続けられてきた演劇活動を支援しようと、ヨーロッパ各国のアーティストたちが連帯した。その中には、1993年の欧州文化首都アントワープ(ベルギー)のアーティスト達もいた。戦禍にあって、芸術が果たした役割を問うてもその答えは見つからない。しかし、極限の状況で芝居を演じ続け、「生きること」の意味を問い続けた役者たちの存在が絶望の中にいる市民をどれだけ勇気づけたか計り知れない。
もうひとつ、1929年の世界恐慌以降のアメリカで起こったことを記しておきたい。その国家存亡の危機に、アメリカ連邦政府が取り組んだ壮大な公共事業は「ニューディール政策」の名で広く知られている。しかし、実際には、莫大な税金を投入したこの政策も期待されたほど効果が表れず、景気回復には結び付かなかった。
「世の中の三分の一の人々は住むところに困窮し、着る物もなく、十分に食べることもできずにいる」これは、当時の逼迫した状況を窺わせるフランクリン・D・ルーズベルト大統領の声明文の一部である。それから6年が経過してもなお20%という高い失業率に悩まされていた連邦政府は、「第2次ニューディール政策」を発表する。失業者への生活保護的給付を止め、かわりに公共的な事業のための職を与えることで賃金としての生活資金を提供したのである。結果、最高時には300万人以上の失業者を救済したのである。
そこで展開された壮大な芸術文化政策については、日本ではあまり知られていない。この政策の一環として、演劇、音楽、美術、文学など幅広い分野で多くの芸術家やその関係者が雇用された。毎週、全米では数百万人の観客を集め、約5,000のコンサートが行われ、演劇も1,000を越える舞台に100万人を越える観客が芝居を楽しんだ。また、約30,000点近い美術作品が制作されたほか、全米各地で開催された美術鑑賞の講義も不況の中で多くの美術愛好家を増やしていった。
アメリカの苦難と苦悩の日々を支えた芸術文化の役割は計り知れないほど大きい。この歴史は、市民社会をより活力溢れるものへと導き、大戦後のアメリカの大きな繁栄をもたらしたことは間違いない。
現代において、超大国アメリカは多くの課題を内包している一方、世界で一流とされる大学、劇場、美術館、博物館など、教育や芸術文化に関する活動や施設が市民の浄財によって存在するその文化力、そして活力あふれる市民の存在は、復興を考える時、私達にとって見逃せない事実の一つである。
このような国家存亡の危機において、その復興の一端を芸術が草の根レベルから国家レベルまで担いうるという歴史的事実から、私達はいま多くのことを教訓として学び、実行への糧にできると確信している。
話を今の日本に戻そう。この震災から3週間が経過した頃、当委員会とも行き来のある人形劇団「ひとみ座」の役者である中村孝男さんが、公演のため気仙沼へ向かうという連絡が入った。今回の津波により最も被害を受けた地域のひとつだ。避難所で被災生活を続ける子供たちから、「芝居を見たい」との声が劇団に届いた。「ひとみ座」は、これまでも地方公演でたびたび現地を訪れていた。中村さんは単独公演を決めた。あらゆる物資が不足している現地では、たとえボランティアであっても余分な人員の受け入れは難しい。そこでトラックに要請された内容の救援物資を満載し、現地に向かった。
現地では5か所の避難所を回り物資を届け、一人で人形劇を披露した。帰京した中村さんに現地の様子をお聞きすると「子供たちが、私の芝居に歓声を上げ、笑い転げる姿を見て、私の方が多くの元気をもらい励まされました。」と語ってくれた。なんとか被災者の心を癒したいと行動するアーティストは数多いが、お互いの思いがすれ違いに終わることも多い。中村さんの事例のように、苦難の中で心の糧を求める人々がいる限り、芸術には果たせる役割は多くあることも紛れもない事実だ。芸術は、与えられるものではない。心の中から、沸き起こる欲求、憧れが芸術に存在感を与えるのである。人間の価値観、道徳観の多くは、幼少期に形成されるという。気仙沼の子供たちが、長引く避難生活の中で、中村さんの芝居を楽しんだという思い出は、おそらく生涯を通して、忘れられることはないだろう。
「復旧から復興へ、それを支えるものはなにか」
旅人よ、道は歩いてつくるものだ。初めからそこにあるのではない
(古いスペインの諺)
2004年の500万人が被災したスマトラ沖地震と津波では、世界中から史上空前の募金と物資が寄せられたが、反射的ともいえる国際社会の反応は、援助側の善意が結果として被災現場を混乱させるという事態を招いた。一時は、支援額の国際競争ともなり、さらに地元の混乱に拍車をかけた。フランスの論客ジャック・アタリは自著「21世紀辞典」で「20世紀に行われた政府開発援助は、富める国をさらに豊かに、貧しい国をさらに貧しい国へと導くことしかもたらさなかった」と厳しくも本質を突いた指摘をしている。確かに災害直後の復旧に際して、支援物資や資金は不可欠であるが、受け入れ体制が整っていることで初めて支援は有効に生かされる。善意の一方通行は避けなくてはならない。
復旧が一段落すると、その後の復興への段階に入る。課題は、「生存」から「生活」へと移る。ここで初めて、「生活とは何か、生きるとはなにか」という哲学が問われることとなる。被災地の人々の再生に懸ける強い意志、信念といった内面から湧き出てくるエネルギーがより重要となってくる。そのためにも、地元のリーダーは大切であり、その存在なくして真の復興はあり得ない。そして、私達は、復興の先にどのような希望の未来を描いて、一歩一歩進んでいくのか。
その道のりで求められることは、洞察力、思慮深さ、愛情、信頼、自立心、感性、独創性が伴う豊かな人間性であることは、間違いない。
「終わりに、希望の未来に向けて」
国家の価値とは、結局国民個々の価値である。
ジョン・スチュアート・ミル
第2次大戦の惨禍から、奇跡の復興を遂げ、世界有数の経済大国に上り詰めた日本。しかし、近年、物質的な豊かさの陰で、精神の貧困は指摘されることも多くなっていた。日本の自殺者数は、もう長い間、毎年3万人を超えている。今回の大震災の犠牲者をはるかに上回る数だ。この戦後60数年で何を得て、何を失ったのか。
数年前、ある経済界のトップが私に語った言葉は強烈に脳裏に焼き付いた。「古木君、もう一度焼け野原にならないと日本人は分からないのだよ。」経済の繁栄の一方で、その経済を取り巻く人間社会の精神の荒廃を彼は嘆いていたのだ。この大震災から、日本は復興の道を辿り始めたが、物質的な豊かさだけでなく、精神的な豊かさを伴った新たな日本を築いてゆく行動を一歩ずつ重ねてゆかなければならない。
今回の大震災を境にして、私達は大きな岐路に立っている。どのようにこの悲劇を乗り越えてゆくのか、どのような新しい日本を創ろうとするのか、大きな歴史的な取り組みは、私達ひとりひとりの力にゆだねられている。今、世界中の仲間たちも固唾を飲んで、私達の行動を見守っている。
ガンバレ東北!!! ガンバレ日本!!!