コラム
Column事務局からの報告
はじめに
宇宙から地球を俯瞰すると、その姿は何百万年も変わらないのだろう。公転を続ける地球。北半球に住む私達にようやく春が訪れ、今年も美しい満開の桜が日本中を覆い尽くした。まぶしい陽光のなかで、自然の恵みに心から感謝の気持ちが沸いてくる。
一方、私達の日常の人間社会には安寧とは言えない喧騒が続いている。日本でも、様々な事件が次から次へと起こり、また人口減が進み、高齢化社会への漠然とした不安も渦巻いている。国外へ目を向けると、北朝鮮やシリア情勢、ヨーロッパでは、移民や難民問題、英国のEU離脱、各地でのテロ事件、そして、ポピュリズム、政治の右傾化、保護主義の台頭など、様々なニュースが世界を駆け巡り、その都度、一喜一憂する私達がいる。
ふと、生涯を一高校教師として貫いた哲学者アランの幸福論が思い浮かぶ。
「悲観は感情の問題、楽観は意志の問題」。
問題の多くを加速するグローバル化、情報化、AI化のせい、時代のせいにしがちな私達に対し、アランの言葉は警鐘を鳴らしているかのように響く。今一度、人間として、希望、理想、尊厳、愛情など多くの根源的で大切なものに目を向けよと迫ってくる。
情報への向き合い方が問われる現代
情報は人間にとって、意識しているかどうかに拘らず、生きてゆくうえで、基本的な存在だ。水や空気と同様に欠かせない。
高度の情報社会を迎えている現代。コンピューターなどの新しい技術は進歩の加速を強めている。テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、スマートフォンやインターネットなど「情報の乗り物」であるメディアによって、かつては、考えられなかった膨大な量の情報が世界を飛び交っている。
マスメディアは、専門性をもった送り手から一般の人々にメッセージが伝えられる垂直型の情報伝達手段であるのに対し、容易く発信ができるSNSは、趣向やイデオロギーに共通点をもつ人間同士が結びつく水平型の「つながりと共感のメディア」である。
いずれにせよ、情報は人間が意味を与え、つくり、使うものだ。人間の許容量をはるかに超える気の遠くなるような膨大な情報がなだれ込む時代となり、私達一人一人は情報との付き合い方が問われている。中には、誇大な表現やデマ、フェイクニュースもあり、その拡散によって社会に混乱と分断を招き、ポピュリズムや保護主義の台頭へとつながってゆくことも現実だ。
太古の昔、人類は、大自然の脅威に備えなければならなかった。現代では、情報が新たな脅威であり、私達は情報のジャングルのなかで、自分自身で判断し、考えて生きぬく術が求められている。海上では台風やハリケーンで一時的に荒波が立つことがあっても、深海では、静かで豊かな世界も存在しているのだ。表面だけの情報に翻弄されることなく、奥深いところの存在にまで考えを及ばせることが重要だ。
メディアの伝えるヨーロッパ、現実のヨーロッパ
先日、私の古くからの友人で1990年代に駐日大使を務めたピエール・グラメーニャ氏(現ルクセンブルグ財務大臣)とお会いした時、「EUがなし得たことは数限りなく多いが、メディアは難航しているいくつかのことばかりを報道する。」と嘆いていた。2010年代に入り、EUは行き詰まりを見せていることも確かだが、ブラッセルの官僚に対する不満が鬱積してもEU崩壊論は決して現実的でない。いまなお、欧州統合は、人類の歴史で前例のない平和への壮大な試みであることは誰しも認めるところであろう。第2次世界大戦、そして長く続いた東西冷戦時代に戻りたいと考える人間は誰ひとりいない。
外から見ると、いまのヨーロッパはテロが頻発する地域というイメージを持たれているが、実際はどうであろう。銃社会のアメリカでは、3億丁の銃が存在し、殺人や自殺、その他の事故により、銃に関連して年間3万人が犠牲者となっていると言われる。紛争続く中東はさらに深刻だ。多数の犠牲者が連日、後を絶たない。アメリカや中東で日常茶飯事に起こっている事件が、人口5億人の平和なヨーロッパで一旦起こると、小さい規模でも大ニュースとなる。
先日、パリのシャンゼリゼにおける警察官襲撃事件直後、私は乗り継ぎのため、シャルルドゴール空港にいたが、気抜けするほどに平穏な雰囲気であった。厳戒態勢は、かえって恐怖感、パニックを煽ることに繋がり、事態の収拾には結びつかないことを政府も市民も学んだのではないか。昨年のブラッセル空港爆破事件の直後、アムステルダム空港でも武装警官の姿は全く見られず、抑制のきいた慎重な警備が行われていた。事態をどのように収拾させるかについては、メディアにも一定の協力が求められる。
自殺を例にとると、かつてウィーンの地下鉄が開通した直後、飛び込み自殺が相次いだ。連日、その模様が詳細に報道された結果、さらに自殺者は増加した。しかし、その事態を受け、報道が抑制的な手法へと是正され、自殺願望者へのセラピーなどの紹介番組を増やしたところ、自殺者は急激に減少した。テロ報道にあっても事件の背景に冷静に迫り、今後、どのように防ぐかという視点も求められる。
自分の目の届かない出来事の報道から、危機感を持つことは正しいが、自らの体験に基づかなくても、まともな価値判断ができてこそ、知性ある生き物としての人間ではないか。いろいろな社会問題に対して議論が噴出していることは確かだが、メディアの伝えるヨーロッパと異なり、私は、彼らの日常は冷静で平穏であると実感している。
多様で重層的なヨーロッパの市民社会
昨年、私は、現在と未来の欧州文化首都の11都市全てを訪ね歩いた。地元の人々と触れ合う度に、日本では想像できないほど静かで心豊かな日常の光景を目の当たりにする。市民の生活の中に入ってゆくと、移民、難民問題、テロ事件、そしてEU統合への逆風など現在のヨーロッパの混乱に対して、彼らは「動揺」するのではなく、事態に「対応」を試みていることを実感する。
そもそもヨーロッパへ流れ込む移民、難民は、今に始まったことではない。千年も二千年も続いてきたのだ。それがヨーロッパなのだ。
フランスの歴史を遡ると、古代ローマ時代、この地はガリアと呼ばれケルト人が住んでいた。その後、民族大移動で、ゲルマン一族のフランク人が移住してきた。先史時代から、フランス人が住んでいたわけではないのだ。フランスでは、この国に生まれ、教育を受けた者は成年に達すると自動的に国籍を与えられ、法律的には、肌の色、宗教の違いはあっても、すべてがフランス人なのだ。とはいえ、理想的に事は進まない。「自由、平等、博愛」の精神を学校で叩き込まれても、社会に出るとイスラム系やアフリカ系の移民に対する差別と区別が存在するのも厳然たる事実だ。
フランスで大統領選挙が始まった。白熱し「移民排斥、反EU」が大きな争点になっている。そこで気がかりなのは、メディアの取り上げ方だ。各国には年月を経て社会に溶け込む努力を重ね、市民権を得てその国に貢献している移民も多く存在する。不法移民に対する厳しい取り締まりで知られたサルコジ元大統領も、ハンガリーとユダヤの移民2世だ。問題は、合法か違法かに拘らず、すべての移民をひとくくりにしたかのような報道が様々な社会への不満を持つ人々を刺激し、扇動していることだ。
このような短絡的なメディア報道によって、重層的なヨーロッパの市民社会を過小評価してはならない。多民族によって構成される市民社会は重層的で、その多様性こそがヨーロッパの強みでもあるのだ。
現在の状況に抗うように、苦悩の中で、希望を見出す努力と行動を重ねる姿がある。それがヨーロッパの歴史からくる耐性と底力なのだろう。
欧州文化首都ヴロツワフ(ポーランド)花開く芸術文化の背景に興亡の歴史
ポーランドは、歴史上、長い間、隣国の強国の脅威に晒されてきた国だ。幾度となく、国境線は変化してきた。19世紀には、周辺の大国に分割され、地図から国名が消滅するという時期もあった。歴史上、絶滅した民族、他の民族に同化した民族、大国に飲み込まれた民族も数多いが、ポーランドは見事に再興した。
海で囲まれたに日本には、国境は存在しない。他国の侵略もなく、独立を求めて戦った歴史もない。国の始まりから独立した存在であった。したがって、島国日本にとって、ポーランドの苦難と波乱に満ちた生生流転の歴史を理解することは、容易いことではない。
悲惨な歴史、絶望の淵に立たされたことから、魂を揺さぶる芸術が生まれる。ショパンの音楽もその一つ。彼のピアノ曲は、日本でも多くの音楽ファンの心をとらえて離さない。しかし、全国土が焦土化するという悲惨な敗戦体験を経て初めて、日本人は真にショパンを弾けるようになったと言われている。楽譜をなぞるだけでは、名演奏は生まれないのだ。
話を戦後のポーランドへと戻す。第2次大戦の終盤、ソ連領クリミアでアメリカのルーズベルト、英国のチャーチル、そしてソ連のスターリンら首脳が集まり、戦後処理に関する「ヤルタ会談」が行われた。会談の半分以上は、ポーランド問題について費やされた。その結果、ポーランドの国境は250キロ西へ移動させられ、ヴロツワフは、再びポーランド領となった。この街では、ベルリンが陥落した後も激しい戦闘が続き、街のほとんどが破壊された。それまで市民であったドイツ人は追放され、東方からポーランド人が帰還した。結果、市の人口がすべて入れ替わるという世界でも稀有な歴史を刻むこととなった。
ドイツは領土の多くを失い、旧東部領から強制的に帰還を余儀なくされたドイツ住民は1,400万人に上った。本国への途中、彼らに対する暴行や略奪は凄惨を極め、200万人のドイツ人が命を落とした。かつての加害国ドイツへの激しい憎しみがこのような事態を招いたのだ。ポーランドにとって、過去のドイツの蛮行を赦せる由もなかったが、やがて、大きな転換期が訪れた。1965年、東西冷戦下で20年の歳月が経過し、状況は動き始めた。ヴロツワフのコミネック(Kominek)枢機卿がドイツの司教に対し、「和解の手紙」を送ったのだ。「私達を赦してください。私達もあなた達を赦します。」過去の記憶を拭い去ることのできない多くのポーランド人の心情、東西冷戦下の共産主義体制により、コミネック枢機卿は激しい批判に晒されたが、この手紙が足掛かりとなり、その後、両国の関係は少しずつ改善へと向かった。それから半世紀が経過した現在、ポーランドは、愛国主義的な保守政党が政権に返り咲き、ドイツに強硬な姿勢を示している。歴史については、両国の異なる解釈や心情があり、いまなお合意することは難しい。しかし、その状況がありながらも、お互いが欧州の一員という新しいパートナーシップがすでに確立していることは、見逃してはならない。私達が住むアジアにおいては、歴史問題が障害となり、未来へのパートナーシップ構築は遅々と進まない。興亡の歴史を生き抜いてきたポーランドから学ぶべきことは多い。
ポーランドは、2004年EUに加盟して以来、経済成長も著しい国だ。しかし、その結果、過去の苦難の歴史は、人々の記憶から忘れ去られようとしている現実があった。その事態に、危機感を抱いたドゥトキェヴィッチ市長は、人々の記憶にある歴史を掘り起こすことにも力を入れた。一方で長く苦悩を伴った歴史は、深い芸術を育んできた。それが故にヴロツワフは、他国で生まれた文化への許容度を持ち合わせていたと言えよう。とりわけ、精神的な側面で捉えられた日本文化は、すでに現地に浸透している。このような背景を持つヴロツワフでの欧州文化首都では、長年の準備期間、創造的なチームにより、幅が広く、奥行きの深いプログラムが展開された。2016年には、世界各国からのアーティスト、青少年、様々な分野の代表者も欧州文化首都の旗の下に、様々な差異を乗り越えて集まった。日本から招聘された多くの人々もその一員となれたことを誇りに思う。
芸術は、政治的な課題を解決する手段ではない。しかし、近年深刻化したユーロ危機、連続したテロ、難民の流入に起因したEU域内の不和、反EUを掲げるポピュリズムの台頭など、危機感を増すヨーロッパにあって、欧州文化首都ヴロツワフが世界各国に働きかけた芸術の連帯の意義は計り知れない程大きい。ドゥトキェヴィッチ市長の卓越したリーダーシップに心からの敬意を表したい。
欧州文化首都、バスクのサン・セバスティアン/多様化と和平への道を模索して
16世紀、日本を最初に訪れたヨーロッパ人の一人が、バスク人の宣教師フランシスコ・ザビエルであった。バスクと日本は、500年も前に出会っていたのだ。バスク地方は、ピレネー山脈の両麓に位置し、スペインとフランスの両国にまたがっている。人口は、スペイン側に約270万人、フランス側に約25万人を数える。サン・セバスティアンは、ビスケー湾に面し、風光明媚な観光地、文化豊かな都市として世界に知られている。2011年、欧州委員会は、この都市を5年先の欧州文化首都に決定した。このニュースに接し、「バスク」の忘れられない記憶が私の脳裏を横切った。それは、1990年秋、北アイルランドのベルファーストを訪ねた時のこと。当時は、カトリック系住民の英国からの分離独立闘争「北アイルランド紛争」が続いており、IRA(アイルランド共和国軍)によるテロ活動は激しく展開されていた。現地で、私は街を二分する「平和の壁」をくぐり、カトリック系住民の居住地域へ入った。そこで私が目にしたのは、英国に対する闘争の歴史にまつわる多くの壁画であった。その中に、同じくバスクでスペインからの分離独立の武力闘争を展開していた民族組織ETA(バスク祖国と自由)の銃を掲げた覆面姿の兵士の肖像画があった。激しい怒りと憎しみ、抵抗の姿勢が伝わってくるようだった。当時、IRAは、国際的孤立のなかで、ETAやPLFPP(パレスチナ解放人民戦線)などの世界各地のテロ組織に連帯と団結を呼び掛けていたのだ。因みにその時滞在したベルファーストのホテルが爆破されたのは、私の出発のわずか3日後のことであった。私はいまなお忘れることはできない。
話を戻そう。スペインでは、2016年の欧州文化首都開催を巡って国内の数都市が立候補し、それぞれがしのぎを削り、最終的にサン・セバスティアンが選ばれた。バスクで繰り広げられた武装闘争の歴史、そこで流された血、多くの命が犠牲になった歴史は拭い去れないが、前年にETAが武装闘争停止を宣言したことは、欧州文化首都選定に何らかの影響を与えたに違いない。
欧州文化首都サン・セバスティアンのモットーは「衝突を乗り越えるための文化」とされた。その姿勢が具体的に示されたのが「平和条約展」だ。ヒロシマの「被爆時計」も展示された。同じ時期、オバマ米大統領による歴史的な広島訪問が実現した。被爆者と言葉を交わし、抱き合う大統領の姿は世界に発信された。同様にバスクでも、かつて、世界のテロ集団と連携し、血で血を洗う闘争がくり広げられた歴史を彼らは克服した。2016年欧州文化首都サン・セバスティアンには世界のアーティストが集まり、芸術と文化の旗が振られ、世界と繋がった一年となった。
24年目となったEU・ジャパンフェストの取り組み
2017年2月23日、EU・ジャパンフェストの委員会総会の会場となった駐日デンマーク大使公邸には、内山田実行委員長や委員を務める経済界のリーダーと各国大使に加え、新旧の欧州文化首都10都市の代表たちが顔をそろえ、熱気あふれる集いとなった。振り返れば、EU・ジャパンフェストの活動が始まったのは、日本のバブル経済が崩壊した頃の1993年。その後も、2008年のリーマンショックによる世界経済の大打撃や、2011年に東日本を襲った大地震と津波による甚大な被害などの逆境もあった。しかし、多くの日本企業が「経済と文化は社会の両輪」と捉え、見返りのない文化支援を長年に渡って支援し続けて下さった。
この24年間に、欧州文化首都という舞台を通して、3万人を超える日欧のアーティストや青少年が出会い、活動を共にした。そこから、地域間、アーティスト間への連帯、協働の取り組みが自立して継続されている。不可欠となる現場の当事者たちによる自助努力と実現力も次第に確立してきた。民間企業のご支援、公的助成に加えて、アーティストによるクラウドファンディングの取り組みも始まった。
EUによって始められた欧州文化首都は、いまや世界各地から、アーティストを迎えるグローバルな取り組みへと発展した。文化、芸術には、国境もなくパスポートもいらない。人種、宗教も問われない。質の高いアートが求められるのみだ。シェンゲンとは、旅券なしで国境を行き来できる協定で、EUの22ヶ国と域外の4か国が加盟している。一方、欧州文化首都は、世界100ヶ国以上を巻き込んだ芸術文化のシェンゲン協定ともいえる。その開かれた取り組みによって、未来を見据えて先端を切り開くようなアーティストの活動にも大いに期待したい。私達は、ローカルでありながら、グローバルに生き、世界と繋がっている。2016年を総括しながらそのように実感した。
終わりに
この報告を書いている今も、世界中から、多くの重大ニュースが飛び込んでくる。しかし、悲嘆に明け暮れてよいわけではない。
私達には、これまでの欧州文化首都における多くの人々の活動から教わったことがある。「悲観からは何も生まれない。私達に求められているのは、理想を掲げ、意志を持った楽観を持つこと。試練の強さだけ、人間は強くなれる」ということだ。
子供達は、いつの時代も変わらない。彼らは社会共有の財産である。私達大人は彼らが持つそれぞれの特性や才能に敏感になり、必要な手助けをすることが求められている。将来の希望に向けて、成熟した政治、壮大な技術に期待することは多い。それと同時に、文化への願望や憧れを私達が真剣に受け止めて行動することができれば、私達の未来はとても人間らしいものになると私は確信している。