コラム
Column規律と処罰
私達がレッチェにある刑務所での『ヒューマン・シェイム』公演を目前に控えていた頃、新型コロナウイルスが急速に到来しつつありました。2月21日は、イタリアの劇場で上演が許されていた最後の数日でした。そして私達は、レッチェの刑務所で舞台の上演に臨んだのでした。
入口では、まるでパーティーに足を踏み入れたような、温かな歓迎に包まれます。罪悪感や不安、無力感といった感覚を伴う悔恨の念を描いた舞台を観に行くことへの予感が、その華やいだ雰囲気により、たちまち打ち砕かれます。受刑者らからは、「新しい恥おめでとう」と祝う文字が銘打たれた金色の紙の王冠と、「あなたは何に恥じているのか」という問いに答えてもらうための白紙の紙が観客に手渡されました。
©Simone Maci
緞帳のない、最小限の舞台美術のみの、剥き出しともいえるステージには、奥の白いスクリーンと、両脇のネオン灯の金属スタンドが配されています。アントネッラ・イアロレンツィ、田代絵麻、マリア・グラツィア・ナッチ、マッティア・ジョルダーノ、シモーナ・スピロフスカらが、太古のサバイバル感を漂わせる毛皮と衣服を纏っただけの半裸姿で舞台に登場し、原始本能を呼び起こします。そしてその身体が、表現力豊かなダンスとジェスチャーと、容姿と顔の表情が織り成すナラティブとなるのです。
観客との対話が絶えず交わされ、上演中、役者らが観客に向かって、暗示的あるいは明示的に、皮肉やユーモアを込めて、レトリック抜きに問いをぶつける、これが本パフォーマンスの真の強みといえます。
パフォーマンスの締めくくりでは、頭に小さな王冠をかぶり、ABBAの『ダンシング・クイーン』の音色に乗って、恥の王と女王達が新たな門出を祝します。その再誕は、くしゃくしゃに丸められた各自の恥のリストの紙をステージに投げ込むという、象徴的かつ解放的な演出のジェスチャーによって特徴づけられます。それは罪からの解放、裁きからの解放、因習からの解放を意味するのです。
©Simone Maci
1975年にミシェル・フーコー著の『監獄の誕生:監視と処罰』が出版されたとき、我々の世代は、監獄、学校、病院などを、規律、処罰そして厳格な監視制度のもとで身体や人々を拘禁する、全制的かつ全体化的な施設として捉える議論に興味を掻き立てられました。
こうした施設内では、フーコーの論じるところによると、権威主義的かつ破壊的な権力行使により、身体の存在が抹消、抹殺されます。それから長い月日が経ち、その名残や爪痕は多分に残されているものの、道徳的なエネルギーが解き放たれ、新しい実践の在り方や展望が生み出されました。人道化のプロセスと人権の尊重が、これらの機関の中心に置かれれるようになったのです。また、刑務所で、数多くの演劇活動や実践が広がりを見せているのもそのおかげなのです。
さらに、マテーラ2019の公式文化プログラムの一環で制作された舞台作品『ヒューマン・シェイム』をレッチェの刑務所で披露したことは、受刑者達のみならず、我々誰もが関係する人類の復興と再生に向けた、この長い、今となっては必要不可欠な道のりにおいての、祝福すべき節目となったといえます。
30年前ならば、『ヒューマン・シェイム』の公演を刑務所に持ち込むことは難しかっただろうと思われます。その理由は、舞台上での裸姿ではなく、むしろ刑務所の内外を取り巻く社会的関係の構造にあります。刑務所も社会もともに、活力に満ちた意欲がことごとく制圧され、思考や良心が休止し飼いならされる、「恥の巣窟」であったからです。
とりわけ刑務所施設内という環境において演劇が巻き起こす革命は、専ら役者と観客の関係にもたらす変化の引き金となるためにあります。現代は、これまでにも増して水平的な分かち合いの関係となりつつあります。感情、内容、想いの共有。見詰める眼差し、傾聴、動作が兆候と夢、現在と未来を結びつけ、自己が他者すなわちアイデンティティと他者性が絡み合うことを通じて、役者と観客が互いに問いかけ、発見し合うのです。
©Simone Maci
作品『ヒューマン・シェイム』には、心に軌跡を残し、共感の尺度、感情交流、変化の必要性への緊迫感をもたらすジェスチャーや動作が存在します。観客が「新しい恥おめでとう」と書かれた黄金の紙の王冠をかぶり、自宅あるいは独房でも着けたままでいるとき、観客が紙に自分達の恥をしたためるとき、役者に拍手喝采を送るとき、彼らが互いに抱擁し合うとき、何よりも多大な自信と意識そして満面の微笑みを湛えながらその部屋を後にするとき、それはこのゲームが功を奏し、内と外を結ぶ懸け橋を築くことが可能だということを意味します。それはすなわち、フーコーが著した『規律と処罰』が、『教育と新生』へと変容し得ることを物語っているのです。